通販用のクレカの支払いが最近妙に多いなあと思いつつ、確認すると実際には自分で購入したものの履歴が大量に出てくるわけで、何をそんなに買っているのか見てみたら電子書籍(漫画)が大多数を占めているわけですよ。
電子書籍、本当に便利で最高だな、と。
最初はWeb連載の単行本化したものをチマチマ読んでいましたが、昔雑誌で中途半端に読んでいた漫画とか、友達の家で流し読みした漫画とか、アニメしか見たことないものとか、そういうちょっと懐かしいタイトルをドカンとまとめて読み直しています。ハガレンとかシュガルンとかCCさくらとか…。
そんな中でTwitterの相互が、バナナフィッシュのアニメを見始めた、面白い、漫画も買おうと思っているという話をしていたので、私もなぜか自宅に文庫版の1巻だけ物質であるし(買った記憶はない)、この機会に読んでみてもいいかなと思ったので、電子書籍で文庫版20巻分まとめて買って読みました。
面白かったです。
これが7月の話ですね(購入履歴でいつ買ったのか確認できるのも電子版のいいところかもしれない)。
で、10月に入ってから、やっぱりTwitterで今度はブラックラグーンの話を見かけて、こっちはタケナカと合言葉で云々してたくだりだけエピソードの記憶があったので、物は試しと電子書籍で11巻分購入しました。
面白かったです。
てっきり完結しているものだと思っていたのですが、未完なんですね?
未完には慣れているので全然いいのですが……。
そういえば十二国記の短編集の霊圧が出てきましたね、楽しみです。
バナナフィッシュもブラックラグーンも、自分にはどうしようもないところで発生した思惑に振り回され、その過去に囚われ続けている構造、否応なしに世界の広さを見せつけられる体験が非常に魅力的でした。
バナナフィッシュはことの発端がアメリカ人にトラウマを植えつけたと言われるベトナム戦争であり、あるいは米ソ対立、そこで跳梁跋扈したマフィアたち、見出されてしまった少年(たち)の物語でした。
一方ブラックラグーンでは、主人公は勤め先の日本企業が企んだ密貿易(禁輸国企業との核事業協力)と、関与を試みたロシアンマフィアのトラブルに巻き込まれ、書類上の死をもって日本を離れることとなります。彼が所属することになった運び屋の本拠地・タイのロアナプラには、上述のロシア系から中華系、南米系、イタリア系など複数のマフィアが支部を持ち、一触即発の気配を漂わせながらも共存を果たしていました。
2つの作品は、散りばめられる要素がなんとなく似通っていて(「戦争」の影、マフィアやドラッグ、南米との関わり、日本からの客人……)、続けて読むことで、今、一種の時代性への興味が湧いているところです。
とはいえ、調べてみたところ、これらの2作品では連載時期も違えば舞台になった国も時代も全くかぶっていませんでした。
バナナフィッシュの連載は1985-1994年であり、同じく1985年のアメリカ・ニューヨークを舞台にしています。ベトナム戦争(1955-1975年)の派兵でドラッグ由来の後遺症を負った主人公兄の存在が非常に大きく、その薬物と、それを取り仕切るコルシカマフィア、冷戦(ソ連及びその流れを汲む南米社会主義勢力)での利用を目論む国家権力といった思惑の交差が、物語を動かす中心を担ってます。
ブラックラグーンでは連載開始が2001年ということも関係してか、作中でもすでにソ連は解体されており、1991年以降の物語であることは確定と見て良いでしょう。とはいえ、ベトナム帰還兵がまだ現役で戦える程度にしか時代が経過していいない様子から、2000年代であるとも考えにくい。2巻では「1945年」の事件に対して「50年後」という表現がなされているので、舞台は1995年前後のタイであると考えることができます。
このように時代も地域も異なる作品にもかかわらず、少なくとも私にとって同じように興味深く感じられるのは、当時の日本人に見えていた世界の外殻が見て取れる(ような心地がする)からだと考えています。
今日では、ベトナム戦争やソ連崩壊はすでに時事問題を離れ歴史上の出来事として取り扱われるトピックであり、当時のニューヨークはおろか、日本の世相さえ知りようがない。
しかし、描いている人間はその時代を経験しており、作中に現れる価値観にはその経験が反映されていると考えられます。当時の人間の目を通して観測した世界がフィクション世界に表出し、そしてフィクションだからこそ過剰にも描かれうるならば、当時の人間に見えていた世界が観測者の印象ごと読者の中に流れ込んでくるわけです。
作品の内側を楽しみ、のめり込めばのめり込むほど、その外側にほのめかされる当時の世相やそこに至る歴史的経緯の存在に気付かざるを得なくなるのです。
いずれの作品においても、あるいは他の作品であっても、読者は読むという行為によって、今はもうないものを見る、今まで知らなかったものを知ることができます。
そして我々は、当時隠されていたりアクセスに困難があった情報について、インターネットで容易に調べることが可能な時代に生きています。
特にブラクラは連載時期やファン層がインターネット文化の中心に訴求していたこともあってか、考察や感想のブログが色々あったり、バナナフィッシュも2018年のアニメ化(ずいぶん設定に手が加えられてはいたようですが…)を契機に書かれた解説記事を見かけることも多く、そこから別作品の解説まで読みにいく、作品自体も鑑賞しちゃう(インターネットでアニメや映画も見れちゃうの本当に便利)など、最近ずっとネットサーフ知りたての子供みたいな生活になってしまっています。
物語を起点として外へ外への広がっていく、これら全ての行動・体験全てが楽しくてしょうがない、その感情を持つこと、それによってさらなる深みにはまっていくこと、これこそがオタクであるということなのだろうと思いました。
で、次に読むなら連載期間が2作品の大体中間にあたる1992-1997年、日本を舞台にした90年代少女漫画の金字塔セーラームーンかな、というのが目下の計画です。
これもアニメはずいぶん見ましたが漫画を読んだことがない作品のひとつです。
時代、地域、あるいは題材が上述の作品と近かったりする作品を知っていれば、ぜひぜひ教えてください。
Nintendo Switch用ゲームソフト「ブリガンダイン ルーナジア戦記」が6月25日に発売されてからそろそろ1ヶ月が経とうとしています。プレイしましたか? しましたか? しましたか?
体験版が配信されているので、ぜひプレイしてみてください。
簡単にいうと6か国のうちから好きな勢力を1つ選び、他5か国と陣取り合戦を繰り広げながら大陸制覇するゲームです。
陣地をとったりとられたり、盤面によっては結構シビアな戦闘が続くこともあるので、購入後数日は寝食を忘れてプレイする、みたいな状況に陥っていました。
楽しいゲームは永遠にプレイできる。
この世の理です(そうか?)。
それにしてもゲームが発売日の0時になった瞬間からDL&プレイ可能になるとか、便利な世の中になりましたね。Switch自体がまた品薄で入手困難になっているみたいなので、そっちの方が大変そうです。
***以下、ネタバレあり***
公式サイトに「ファンタジーウォーシミュレーション」というジャンル表記がある通り、マナがどうとかモンスターを召喚するとか亜人とか宗教とかそういうファンタジー愛好心をくすぐる要素がたくさんあって、説明書読んでるだけで楽しいタイプのゲームです。DL版なので説明書…ありませんけど……。
この物語の舞台であるルーナジア大陸には、ルーンの神によって神秘の力「マナ」の恩恵がもたらされています。マナによって人間たちは発展を遂げ、古代のモンスターを召喚・使役することができます。
大陸には6つの勢力が比肩しており、それぞれ異なる歴史、信仰あるいは資源、権益の有無によって反発しあっていました。
そんな6勢力の1つにマナ・サリージア法王国は名を連ねています。
マナ・サリージアは最も広大な版図を誇り、また首都ザイにはルーン神の信徒にとって重要な「マナの泉」を擁します。
ルーンの信徒は大陸中に遍在しており、ザイを拠点とする勢力はザイ派と呼ばれました。ザイ派の信徒たちは、隣国ガイ・ムール共和国内のモハナ派信徒と、過去には30年にわたる戦争に至るほどの大きな禍根があるのでした。
しかし当代の法王、ロマヌフ・マルコはそれをよしとせず、協調路線の治世を築きます。
ロマヌフによって、反目し続けていた2勢力も融和の道を歩みはじめた……はずでした。
ロマヌフの息子、ルド・マルコはルーン警察師団の師団長として、国内で着実に地歩を固めていきます。ルーン警察師団はマナの泉をはじめとする聖蹟の警護や関連施設の管理、運営等を担っており、騎士の中でも特に優れた者を選抜して結成されています。
ルド・マルコの師団長就任はその血筋はもとより、彼自身の騎士としての実力によるところも大きく、ザイ派の騎士の中では右に出るものはいないとの声もあります。
また、法王の方針もあって他派にも一見寛容に接する彼らですが、自らこそが正当な信望者であるとの自負は大きく、特にルドはその中でも特に急進的な考えを持っていました。
ルドは「最も高潔で最も強き者こそが、種と世界を統べ、そして導く」ことが「この天地万物の秩序」であるとの考えを持ち、誇り高い信仰心を持つザイ派によるルーン信仰の統一を是とします。そして、その揺るがぬ信条によって、大陸中で燻っていた戦火を大きく燃え上がらせていくのでした。
その夜、ルドは己の父であるロマヌフの暗殺を決行します。そしてそれをモハナ派の凶行と公表。ガイ・ムール共和国との戦端を開く口実とするのみならず、信仰統一を掲げた大陸制覇へと乗り出すのでした。
***
好きじゃん、ほら。
好きになっちゃったよ。
野心に満ち満ちた男が好きだから………。
ルド曰くの支配者の条件について、高潔さや強さについて定義の必要性を感じつつも、ルドが高潔であることも、強き者であることも、わたしには否定できないし、きっと誰にもできないよなあと思いました。
彼の欲らしい欲、例えば権力そのものや、付随する富や名誉への興味があるようには見えなくて、己の恃むところによって起つこと、それを示すことに意義を感じているのだとわたしは理解しました。
無論、それは明確に自己顕示という欲の名を冠するものだけど。
ただ己の力を信じること、それを示すことを求める彼の姿は、わたしにとっては幼い子供のように見えて、きっと他に何が得られなくても彼は示さずにいられないのだと思いました。
そして彼には彼自身が決めた責務を果たすことへの自覚があるので、個人的にはその辺も高潔ポイント高いです。
一方の強きの方は、この男マジでめちゃくちゃ強いから。
敵対勢力でマナ・サリージア侵略したときに本当に心臓縮んだんですけど、こっちが攻撃力100とか200とかの世界で削りあってるところに突っ込んできてMP大量消費の一撃で500とかぶん殴ってくるんで。
最初にその痛恨の一撃放ってからは通常の200程度の攻撃に落ち着く(MP切れ)ので、例えば囮にLv.1モンスターを置いておいて殺していただいて、そこを魔法や遠隔攻撃や固めの騎士でポコポコ叩いていけば倒せるので…いいんですけど……。
それでこの強き男が側近として重用している男がいて、カイルというんですけど。
まず、ゲーム内の表情差分がですね、すごくて。
口元を歪めた笑顔があるんですよね。邪悪ってこういう?みたいな顔をする。
ルドの笑顔も邪悪なとこあるけど、闘争心!ギラギラ!!って感じがするのでかわいいもんですよ(主観)。
でもカイルの方は…なんか…企んでるな……と思わせる何かがあって……。
ああこいつは一筋縄じゃいかねえな…とか……。
ルドの目の届かぬ部下たちに関する情報を提供したり、その後の方針について進言したり、参謀タイプの振る舞いをしていて、裏切るのはこういう男だよな!!!と思って好きになりました。ていうか、絶対裏切るタイプだったと思うんですよね。
主がルドだから裏切らなかっただけで。
ルドはカイルをうまく使った…あるいは、カイルが望む振る舞いを(そうと意識していなくても)成し続けてきたんだろうなあと思ったんですよね。
カイルが腹の底に抱える欲望というか、そこはかとない邪悪な一面が、ルドと相性良かったんだろうな。いや、ルドは…邪悪ではないが……(?)。
邪悪ではないけど、聖人でもない。それは多分、他人の欲望を否定しないから。意に介さない、興味がないともいうかもしれない。
欲に力が釣り合っていないとき、ルドは立ち塞がってその道筋を打ち砕くのだろう。
この辺ちょっと根拠に乏しいのでもう少しスキットを読み込むなどして考えたいところではあります。全てのスキットを回収できているわけでもないので、そちらも意識しつつ。
ていうかカイル自身も高潔の一端を担う騎士のはずなんですけど、つい邪悪だ〜って言っちゃうの、ごめんね…でも邪悪なんだよな……。
あとプロフィール上でも気になる情報があって、カイルは42歳でルドは22歳なんですよ。20歳差って下手したら親子では?
いつからその主従関係は始まったんだろうとか、まさかおむつ変えてやったりした可能性も?とか、剣の稽古をつけたりもしたのかなとか……最近はもうずっとこの2人の関係性に思いを馳せていますね……。永遠に考えていますよ……。
あとこっちも普通に強いです。運用的にはルドとカイルをそれぞれ別方面の部隊に割り振って進攻してくスタイルがメインかなと思います。
思いますけど。
思うんですけど、2人を同じ戦場に連れてくと特殊会話が発生して、
カイル「ルド様、本日はわたくしめにお任せください。
ルド様の手を汚すまでもありません。
彼らは知ることになりましょう。自らの無知、そして無力を。」
ルド 「良きに計らえ。」
はぁ。
ルドは要所要所で良きに計らえを発射するんだけど(このくだりももっと読み込みたい)、これは信頼なのかな…。
この戦場に、あるいはカイルの振る舞いにさえ興味ない説ありますけど、どうなんだろうな。
ルドを1人で戦場に放り出すと意気揚々と宣戦布告しだすので、こうやって落ち着かれるとびっくりしちゃうんですよね。
あとカイルも結構煽るんだよね…。血気盛んでお似合いの主従だと思います。そしてそれが同じ戦場に立つとこうなる。
かわいいな………。
という感じで、結構楽しくプレイしています。
ストーリーやキャラクターに関しては描写が弱いな、ここ掘り下げてくれないのかな、6勢力の君主だけじゃなくて主要キャラにも専用3Dモデルが欲しかったな〜とか細々とした惜しさを感じつつも、システムなど総合的に見ればまとまりよく仕上がっていると感じるので、1プレイヤーとしては非常に満足しています!
BGMもいいんだよね…。ワクワクする。
大大大満足だったので、DL版を買った上で、ソフト/サントラCD/ビジュアルブック/攻略本同梱の限定盤まで買ってしまいました。
え…永遠に見ていられる………。
さあ! みんな(誰?)もブリガンダインで永遠を手に入れよう!
先週末、窓の外で台風が猛威を振るっている中、私は十二国記の予習をしながらブルーレイを見ていました。
ちなみに十二国記を今から読もうとしている方がもしいらっしゃれば是非「魔性の子」から読んでいただきたい。私自身も最初に「魔性の子」に触れてその世界観の奥深さ、不透明性に心惹かれて十二国記シリーズそのものに手を出した経緯がありますので、まずここから、自分と作風の距離感を測ってみてはいかがでしょうか。
ちなみに十二国記ないし「魔性の子」では、強い風と雨がとても重要な役割を果たすものなので、台風の音を聞きながら読む十二国記、なかなか趣深いものでした。
いうても台風の音、ブルーレイの内容に負けて全然印象に残ってないですけど…。
で、KING OF PRISM -Shiny Seven Stars- 第2巻を見ていたんですよね(感想はこちら)。
それでやっぱり思ったんですよ、十王院、最高だな……って……。
(別件なんですが、鷹梁について、ようやく少しわかってきたような気がしています。彼は戦う男ではなかったんだということです。
今までみんなの港であるという役割で自らを縛っていた彼が、自分の意思をもち、それを信じて向き合えるようになる。そういう成長が芯だったのだと思いました。
戦闘民族に囲まれすぎて、戦わない男がいるということをすっかり忘れていた。というか、家庭内?の彼は完全に戦う男だったじゃないですか、そうでもなきゃ香賀美を椅子に縛り付けたりなんぞするものかよ)
今まであまり眼鏡をかけた男に興味がなくて、理由は特にはないんですけど、デコを出すというシンボルを与えられる男の内面にどうしようもなく心惹かれてしまう性癖の逆サイドということなのでしょうか。眼鏡をかけているというシンボルを与えられた男に全く興味を抱けない……。
ただやはり性癖も一枚岩ではないので、年月によって変わりもするし、新たに出会った男によって変えられたりもするわけだ。
雑魚ちゃんが何の話をしようとしているのか。
勘の良い方は既にお気づきかもしれませんね。
そう、HiGH&LOW THE WORST の話ですね。
轟洋介〜〜〜〜〜〜〜〜〜……。
ザワ見て一番の感想は、轟洋介に対する「これ以上好きにさせないでくれッッッ」だったし、二番目の感想は「ジャム男は俺が幸せにしてやる……」です。ちなみにドラマの方は未視聴です(ただしドラマ情報は常に目から入ってくる環境にある)。
まず轟は鬼邪高校の全日クラスの中で「一番」強い男なんですよ。そんな彼も、定時クラスの「てっぺん」村山には敵わない。ザワ以前にも戦いを挑んで負けているし、ザワ中でもまた敗北してしまう。さらに村山はザワで鬼邪高校を卒業してしまった(でもあれは卒業ていうか中退だと思います)。
そうすると暫定的に轟が全校で「一番強い」わけですが、村山には敵わないままなんだよな。その、一番なのに満足できない感じがまずひとつ推せるポイントなんですよ。飢えてる男が好きなので……。
そんな中、全日クラスにひとりの男が転入してくる。花岡というのですが、花岡は鬼邪高生の中にも出身者が多い「絶望団地」(通称)で暮らしていた小学生時代があり、そのころのよしみと、本人の腕っ節、また底抜けに明るい懐っこさを武器に、全日の不良生徒たちの人心を次々掌握していきます。
もともと轟は不良生徒ではなく、むしろ彼らに搾取される側の立ち位置でした。それが己の決心と努力で強さを手に入れ生まれ変わり、かつて植えつけられた憎しみから不良生徒を下し続けてきた経緯があるんですよね。
だから轟は「一番強い」存在としての「てっぺん」は目指しても、生徒たちを従えるボスという立ち位置を求めることはない(辻&芝の2人だけは轟についていく、という事実も推せる…ただし経緯はよくわからん)。
それと引き換え花岡は、鬼邪高校という看板を背負う気持ちが既にある。自分は鬼邪高校の一員であり、生徒たちのことを自分の仲間だと認識している。
この対比の中で、ハイローは常に仲間との絆を描いてきた作品だから、どうしたって花岡が主人公になってしまうし、村山も轟に対して「花岡は轟にはないものを持っている」という助言を残すわけです。轟が敵わない部分がある男がまた出てきてしまった。
一番なのに、一番になれない。
一番なのに、一番ではないと言われてしまう。
みんなの中の「一番」は、常に違う男の持ち物として輝いている。
この身を引き裂かれそうな矛盾が、彼に異質な輝きを与えている。オタクはそれを好んでしまう…。そうだろ……?
そして、それでも轟が「一番強い」事実は頑として揺るがない、そういう描写が諸所にあるところもポイントです。
花岡は自分のチームのメンバーに「轟は花岡より強い」と言い切られてしまいますし、作中の強敵との喧嘩でも、花岡や他の鬼邪高校が苦戦する中、轟ひとりバチバチに技を決めまくって、敵の四天王相手を立ち上がれなくなるほどに痛めつけてしまいます(花岡の強さはあまり強調された描かれ方をしておらず、四天王とのタイマンにも至っていない)。
また、全日の生徒の中で「てっぺん」村山と戦うに至ったのは轟だけです(しかも助言までもらってる)。花岡も村山と戦うことはできなかった。それは村山がそれを受けなかったからに他ならないのですが、村山に己を受け入れさせた轟というあり方はもう本当に、確かに、あの場で一番強いんですよ。
そして、物語の最後、轟は花岡を認めます。花岡の隣で、その発言を取り上げて盛り立てようとする。
王が別の王のもとに下る、それでも己が勝ち得た「一番」の称号は渡さない。
こんな構図がこんなところにあるなんて……思っていなかった……。本当に好き……。
深く刻まれた性癖の前に人間の理性なんて無力ですよ。魂の輝きは外見に妨げられない。こんな男がメガネをかけているなんて思っていなかった。
ウウ〜〜〜〜……。
あとこれは関係あるようでないようでちょっとだけあるんですが、前田公輝のムニュニュってなってる上唇の形が好きなんですよね。昔デイアフタートゥモローを見ていた時にジェイク・ギレンホールの唇をずっと見ていたことがあり、ああいうムニュニュになってるのすごく好きで……。
それもちょっと関係してるんだろうなと思ったりしています。
アイシ19巻カラーページの円子令司の上唇に落ちる影の形から、彼もそういうムニュニュの持ち主なのでは?と勝手に思っている節もありますし。
唇の話ていうか眼鏡の話をするつもりだったので話を戻すと、最近呪術廻戦という漫画を読んでいて、これまた眼鏡の七海というキャラクターに心惹かれつつあるので、だいぶ好みに影響が出ているなと感じているわけです。彼がどんな生き様を見せてくれるのか、過去のことは結構教えてくれているのですが、未来について、これからが楽しみです。
そんなわけで、当方と近似の性癖を抱えている各位には、ぜひぜひザワを見に行って欲しいなと思っています。そんな人間がいるのかどうかは…私にはわかりませんけど……。
2019/7/14 COMIC CITY 143にFE鷹鴉で申し込みました。
「孵化する日3」が出ます。全年齢です。
本当に「鷹鴉」なのか?という疑いが拭い去れない構成ですが、引き続き蒼炎/セリノスの悲劇以前を捏造しています。
今回、若い頃のルカンを描くにあたって、何しろ蒼炎の20年前だから青年なんだよなと思って設定資料集を見てたんですが、前髪一房降りてるオールバックなんですね……。つい髪型そのまま顔だけ若い感じで描いてしまいました。
というあれこれや進捗を、qoty で公開したりしなかったりしています。
脱稿したらサンプルをあげにきます。
そのあとのイベントとしては、一応10月のSPARK14に申し込みました。ジャンルは未定です。決まったら告知します。
***
キングダム見ました。
キンプリだかプリレだかを映画館に観に行ったときにCMが流れていて、ああ吉沢亮は動いていても顔がいいんだなあ…という感想と、もともと中華な歴史や背景美術が好きなのもあって(蒼穹の昴や十二国記、シュトヘルもこのくくりに入れている)、機会があったら見たいな〜と思っていました。
原作の漫画やアニメは一切見ていないので、それらと比較することはできませんが、一本の映画・物語として捉えた場合ではかなりいい出来だったんじゃないかなと思います。
中華の何が好きって辺境異民族との共生あるいは戦争です。異なる存在をどう捉えるのか、どう扱うのか、なぜそうなのか、そういう概念に心惹かれるからです。衣食住どれをとっても同じことがない、だけど心や体は同じように持っている。文化に優劣はなく、洗練も野蛮もあり得ないのに、あると思ってしまうこと。実は「ない」のだと気づくこと。いろいろな壁を乗り越えた先に、ひとりの人間同士として向き合うことができたとき、そこにあるものは何なのか。
それが何であれ、生じるのはロマンだと思うんですよね…だから人外ホモが好き…。
なので、キングダムにも辺境異民族がいてくれて、とても嬉しい。
作中の異民族は「山の民」と呼ばれていて、名の通り山の中で暮らしています。常に仮面を被っており、個々人の戦闘力は非常に高い設定な模様。また、剣以外でも吹き矢や鎌を扱って戦うことができ、彼らの狩猟採集での生活を想起させてくれます。
吉沢亮演じる嬴政が山の民に助力を乞いに山へふみ入る中、政の部下たちは「どうせ未開の野蛮人なんだから、いざという時には軍の統率された武力で…」と考えるのですが、断崖に構えられた王の居城を前にその考えが浅はかだったと知ります。正直この描写だけでキングダム最高だな、と思ってしまうくらいには、そういう描写が大好きです。
もちろん他にも最高ポイントはあって、例えば山の民の王を演じた長澤まさみ。仮面とボイスチェンジャーで登場したので、最初は予想もしておらず、ところが仮面を外したら長澤まさみの顔面……強キャラ感が天元突破しちゃって本当にびっくりした。その顔が、戦闘シーンでは太ももむき出しファンタジーアーマーで双刀ぶん回して敵の首を刎ねていく……。一番かっこよかったです。ぜひ見て欲しい。
嬴政の敵として出てくるのが、異母弟・成蟜。これを演じる本郷奏多の顔面がもう〜〜〜〜最高。最高の中でも最高……。本郷奏多のことは全く詳しくないのですが、成蟜の顔をしている本郷奏多は最高でした!!!!!
底意地が悪そうな顔面ってこういうのだよな…とうっとりしてしまった。
声もすごく性格悪そうで、それと小物感漂う上擦り方が同居していて、最高。
デコも出てたしな。大好きだよ。しょうがないよもう。
原作読んでないけど奥さんもいるんでしょう?最高じゃん……。成蟜受け、読みたいな……。
悪役が悪役として最後まで立っていて、そして正しく成敗される。王道の物語でしたね。
総括すると、吉沢亮に顔面ボコボコにされてる本郷奏多が見られるキングダム、大変良い映画でした。
背景美術もすごく良かったし、背景美術の資料集とか、出してくれないかな〜〜。衣装も近くで見たいな〜〜〜〜。
めちゃくちゃよかった……
・4話 十王院回
・5話 高田馬場回
・6話 鷹梁回
4話 十王院回
マダガスカル(出オチ)で笑ってたが笑ってる場合じゃなかった。
気がついたら国際レベルの貧富というか、異文化の観光消費の是非というか、強者の理論とか、それでも資源があるうちは夢があるのかなとか、なんか…つらくて……十王院財閥内部の確執以前にこういう概念でまず殺されることになるとは思ってなかったです。
財閥内部の揉め事については、ジジイの掌の上だったのかという一種の安心もありつつ、まだまだ波乱がありそうなので一男には気を引き締めて取り組んでいってもらいたい。ちょっと古風な気質なイメージがあるので、ゴルフとかもやらなきゃいけないんだろうな、大変だな…。でもマダガスカルまで行っちゃえばゴルフもへったくれもないわな。ペーパーカンパニーなのかと思いきやちゃっかり天然ガス採掘の実績まであげちゃって、よかったね一男、児玉の息子が培ってくれたこれも一種の愛なんだね。
ネブカドネザルについてはちょっとキンプリから離れた感情になってしまうので割愛します。ああいうのダメなんだよ、好きなんだわ、あれさえも私が異文化に押し付ける幻想になってしまうけど、その幻想を捨てられずにいる自分自身の話になってしまう。
一男にとっての愛って何になるんだろうな。一男に愛を教えてくれた人物は、財閥内部の闘争で足元すくわれて貶められて、それでもマダガスカルでの一男を支えてくれた。
その愛を受けて一男はフラミンゴになって、オレンジのフラミンゴはマダガスカルを救うんだよ! ゲロ泣きしたわ。泣かずにいられるか? 愛の連鎖だ、これは。愛をつなげていくこと、一男にも頑張ってほしい(一男はもう十分頑張っている)。
一男のプリズムショー、衣装含めて絵面はめちゃくちゃ面白いのに、目から涙がボロボロ出て止まらんわ。徹頭徹尾、最高の流れだった。
一男、スタイルも顔もめちゃくちゃ良くて、連続ジャンプは飛べなくてもそのナリだけで百万点だな〜と思った。最初キンプリを見たときはチャラメガネの一種だね〜という印象だったのに、作品を重ねるごとに人間としての器の深さが見えてきて、ユキノジョウ回での言動ももちろん、今回の十王院回でより深く彼の内面を好きになることができたと思っています。ただ懸念は、彼のあの態度は器の深さであると同時に諦めの良さなんじゃないかなという部分でもある。スタァになったところで、キングを目指しうるのか? そこまでいけないのか? 高校生の彼には、あまり時間は残されていないのかもしれない……またいずれ「進路」というキラーワードで私たちを刺してきてくれるのかもしれない。
高田馬場回
岡山………。香賀美回でも思ったが、以前から雑誌のインタビュー記事で明かされてきた出身地のくだりがこうやって消化されるとは全く思っていなくて、とにかく胸が苦しい。アイドル…じゃなかった、プリズムスタァも一人の人間で、親がいて、学生ならではの家庭の悩みがあって…という面を見せてきてくれる、苦難のシリーズですよ今回は。
背後の風景が山!川!な岡山でも法月仁の完璧なプリズムショーは見ることができて、そしてそれに憧れる子供もいるんだ!という描写。
高田馬場回は泥臭いシンデレラストーリーだったな。
高田馬場はプリズムショーの舞台上でも連続ジャンプを披露できる実力派であり、「その場」に現れることができる真のスタァであり、そこに至るまでの彼自身の努力があり、彼のことを理解してくれる人/家族もいるんだってこと、今まで匂わせるだけだったものがしっかり描かれていて、すごく理想の「高田馬場ジョージ」の表現に近かった。
そろそろソロ活動はいいけど、歌はどうするんだ…? 法月は「これまで通り」って言ってたから、相変わらずGS体制でいくのかな、そりゃそうか、でも高田馬場の歌も聞いてみたいな、下手でもいいから、公衆の面前でなくてもいいから、機会が欲しい。
めちゃくちゃよかった………。
鷹梁回
静岡〜〜〜そうくるか〜〜〜〜。
泣くとかそういう方向じゃなく、ただ辛かったな。鷹梁のアイデンティティはどこになるんだろう? 正直、あまり消化できてない部分が多い。プリズムショー以外の部分への悩みが印象強すぎて、家庭の問題への意識が勝ってしまうんだよな…。でも、それこそが鷹梁だったのかも、とか。
プリズムショーはなんなら一番攻撃的だったけどな…カツオの腹に銛を打つな! そのパワー、好きになっちゃうだろ、もともと好きだが!
でも欲を言わせてもらうと、みんなを包み込む優しさとか料理とかじゃない部分以外をプリズムショーで見せて欲しかったな、例えば闘志とか…。
獲物を仕留める漁師の眼差し、欲しかったよ。
勝ちたいという気持ち、見たかったよ。
それがないこと自体が鷹梁の魅力だったとしても、プリズムキングカップにせよプリズム1にせよ、点数で競わざるを得ない世界において、点数を気にしてない!って胸を張れるのは不動の頂点にいるもののみだと思うので…。
でも鷹梁、本当は泣き虫なんだろうなって思えたのはよかった。キンプラで速水にカレー食べてもらってワンワン泣いてたのはびっくりしたけど、今回、あの場面とかこの場面とか見て、弟妹を面倒見る鷹梁とそうではない鷹梁がいること、弟妹を世話する鷹梁には我慢の概念がつきまとうことがわかってしまって、そうではない…父母や神浜とのシーンで涙が描かれたの、解放されたのかな? それが素なのかな? と思えて、しんみりしてしまった。
神浜がお子様ランチを用意したのも、もちろんオバレの仲間のことが念頭にあってのことだろうけど、鷹梁が封じ込めたまま育て上げられなかった童心へのアプローチだったんじゃないかなと思えて、神浜の洞察力のなせる技だったのか? タイミングも何もかも、神がかったアクションだったのではないでしょうか。自分の気持ちに正直になれるのは子供の特権だったのかもしれない。
う〜ん、あまりまとまってる気がしないんですけど、鷹梁回を考えれば考えるだけスタァとしての鷹梁の可能性に辛くなってしまうので、逃げるためにビール飲んでたらどんどんわけわからなくなってしまった。辛〜い。とりあえず、今回はそういう感じで、よろしくお願いします。以上です。
このブログ、見終わって3時間くらいのインターバルでこのザマなので、記憶なんて不確かなものだよな。はあ。オレンジのフラミンゴの曲、早く欲しいな…。
観客 is DEAD!
なるほどね、と。
LDHくんが「胸キュン」に取り組むとどうなるのか、こういうことだったんですね。
壁ドン、お姫様抱っこ、あとなんだっけ(記憶がない)…ええと、なんかそういうものを「胸キュン」のための道具に貶め、作り上げた虚構の上で女性陣のときめきを踊らせる。「お前たちこういうのが好きなんだろ」を作中でやってしまう。胸キュン is DEAD というのはそういうことなのか? もう「素」の胸キュンは存在しないということなのか? そして「王子」も、その虚構の胸キュンを本物のように存在させることができる者の称号だから、「素」の王子はもういない、そういう意味での “PRINCE is DEAD ” なのだろうか? どうなんだよ白濱亜嵐。オイ。
初代の現王丸(TAKAHIRO)、二代目の竜崎(岩田剛典)に続く三代目王子の称号は朱雀奏(片寄涼太)の手に渡ったわけで、これをLDHの各世代の稼ぎ頭と見る解釈が多いようですが、じゃあ白濱亜嵐は何だったんだよ!?
あのエンディングを見るに、三代目エースはやっぱり片寄だったんだね! と手放しに喜んでいい状況じゃないのでは?
やっぱり続きがあるんだなぁ〜映画一本で終わるわけがなかった。続編も楽しみにしています。
(※よくわかってないまま書いています)
見てる側の感情としてはキンプリと近似だと思います。
王子の概念も胸キュンの概念も、製作者・演者側と我々視聴者の間での共有は全く図られていないので、「なんかそういうものがあるらしい」というフワッとしたイメージだけを持って臨むことになるわけですが、ほぼ丸腰じゃね〜か! また置いてきぼりだよ。
胸キュン競技もわからないし、それを練習するのもわからないよ。
壁ドンの練習を男同士で繰り広げてるのもワカラナイ…。
兄が弟をお姫様抱っこして嬉しそうに走り出すのも、ワカラナイ………。
胸キュンは性別によって隔てられないという主張でもあるのでしょうか? とある男から男へ、胸に秘めた想いがあることは公式で明言されているので、そういう方向性も持ちつつ、それでも胸キュンは死んでしまうんだな…。難しいな。
あと、壁ドン自体は架空の胸キュン動作としてすでに広く人口に膾炙しているのでいいとしても、椅子取りゲームで胸キュンってなんだよ。個人的にケツのデカイ男が大好きだから、チーム生徒会の練習風景でのガブリエル笹塚(関口メンディー)にめちゃくちゃグッと来ちまったよ。そういう感情であってるのか? 出遅れて笹塚の膝の上に乗っかっちゃった生徒会長(佐野玲於)の虚無顔も好きだよ。
とか言いながら、エンドロールはほぼほぼ胸キュンに関係がない、チームの中でのほのぼの後日談みたいな感じでど肝を抜かれた。
先述の男←男の感情にもう一人乗っかってきて男←男←男の図になるし(どういうこと?????)、生徒会長はめちゃめちゃ筋トレ肉体美アピールしてくるし(コレは胸キュンだったのかもしれない)、兄弟は「やっぱり兄貴には叶わねーや!」で丸く収まってるし…。
兄弟めちゃくちゃ可愛かったよぉ〜。
兄はオラオラの超!ワンコ系でヒロインにど真ん中直球で向かっていくし、弟はそんな兄貴をサポートするって言いながらヒロインのこと好きになっちゃう。ライバル関係になるのか?と思いきや、そういう展開にはならず、弟はモヤモヤしたまま大会に参加することに。大会終了後(エンドロール)、兄に「お前も好きだったんだろ?」と指摘されて「兄貴はスゴイ!」に拍車がかかる……。
兄! なんで弟のこと抱き上げてクルクルしてんだよ!
兄は貧乏一家のおバカの肉体派の大食いキャラで、それはほぼ役者本人では?と思わざるを得ない(貧乏一家かどうかは知らない)。私はハイローとプリレの鈴木伸之しか知らないが、LDH映画の鈴木伸之は全部鈴木伸之役なのでは?と思っている(ハイローの鈴木伸之はおバカの肉体派の大食いなバイク整備屋の兄ちゃん)。
鈴木伸之はよぉ〜、飯食いながらインタビューする的な番組で焼肉屋に行って、AKIRAや岩田剛典が喋ってる間も普通に肉とかコメ喰ってんだよな。LDH系イベントのフードメニュー紹介のコーナーとかで、一人で全メニュー食べ切れるか!?みたいなことする役回りなんだよな。
そんなおバカな役どころながらも、ヒロインのことをちゃんと好きだからちゃんと見てて、ヒロインのクセを見抜いて「自分じゃダメなんだ」って気づいちゃうとこ、愛おしくてしょうがねえ…。
鈴木伸之! 俺を選べ! 俺が幸せにしてやる! 腹一杯飯を食わせてやるから!! ※鈴木伸之ではない
気づいちゃってるのに諦められなくて、「俺じゃダメなんだろ?」ってヒロイン本人に確認しに行っちゃう愚直さもたまらねぇ〜〜〜〜!!!!!
そこで一粒涙をこぼすじゃないですか。彼は。
感動的なシーン、私の感情もめちゃくちゃですよ。
でもねえ、鈴木伸之の涙は、恐ろしいんですよ。
LDHは有料チャンネルで色々な番組を公開していて、LDHの人間たちが色々なコーナーで色々なことをやってるらしいんですよね。
その中には「LDH俳優たちの中で誰が一番早く泣くことができるのか?」という演技対決があり、青柳翔と鈴木の対決では、青柳が頑張ってる横で、鈴木伸之、3秒で落涙。
えっ…はや……。
こわ……。
彼が一体何に涙したのか? 我々には永久に知ることはできない。ただ恐ろしいことだけがわかった、それだけである…。
プリレの感想というか、鈴木伸之の話になってしまった…。
公開初日の昨日、舞台挨拶付きのものを見たので鈴木伸之の挨拶も見ていたのですが、あいつは本当に…心臓が強いな……。
場慣れしているので堂々と話し始めるのに、何も考えてないのでオチはないしダダ滑りしてるのに平気な顔して「まっそんな感じで!」と適当にしめてしまう(しまっていない)。
ハイローの何かの登壇挨拶の時、横一列に並んでるのに身を乗り出してまで隣の岩田の顔をずっと見てたせいで、鈴木の頭一個だけ前に飛び出ていたのを思い出した。
舞台挨拶、塩野瑛久かわいかったな、お前がヒロインだよ。
好きですか? 王様。
わたしは大好きです。
主君をコロコロ変えるとは、臣として不忠不義もここに極まれりといったところですが、「七度主君を変えねば武士とはいえぬ」ともいいますし、ちょっと私の新しい王様の話を聞いてください(ただし雑魚ちゃんは臣下でなければ武士でもない)。
そういえば十二国記、2019年中には新作出るって本当の本当ですか? 国が十二あって王も十二いるという、十二国記。
十二国では雁の王・小松の三男坊が好きなんですよ、国を失う男が好きなので。
今まで手の届かないところに取り上げられてたものを、姿が失われる寸前で押し付けられて、取りこぼして、それでもまだ求めてしまう、欲望というかバイタリティに満ち満ちて、野望を標榜して止まない精神力が愛おしくて……。あるいは、そうでもしなければ希望がなさすぎる、絶望と紙一重の境遇が。
新しい国がうまくいって、新しい民を守り尽くしても、失われたものは戻ってこない。「そのもの」はもうない。詫びる言葉もなく、相手もいない。癒えることのない傷は常に心の奥底で口を開けている。その傷が治らず痛むことに安堵するのか? 癒えなければ忘れないから?
とは言え自罰的な概念は、特別好きではないんだよな。自分を罰している暇があったら馬車馬のように働いて、未来のために尽くしてほしいので。とんでもないエゴですよ、これは。私の。
何の話をしているのか? 王様の話ですよ。
「国を滅ぼした男」たる悪名、最高では? とは最近ずっと考えてることなんですがね。真相がどうあれ、最後の王ってそういうことになってしまう(と思う)から。
ずっと後になって、歴史上の出来事として、ああすればこうすればと語られる中で、例えば無能であったとか人望がなかっただとか、そういう風に肉付けがされることもあるのでしょう。本当のことは誰も知らない。
ただ、場合によっては、長命の鷺あるいは竜の老人の子供時代の思い出として、露悪的で献身的な鴉の記憶がおぼろげにあり続けられるかもしれない。もっともそれがかつて王であったなんて、その子供には知り得なかったことだけど。
存命中の出来事でも、「鴉の王」を名乗る鴉が現れて、旧王の所業をを糾弾するとかありうるだろうな〜…鷹やベオクとの確執よりも、鴉同士での軋轢の方が、指標が不在になったことで突沸して諸所に飛び火しそうな気がする。
暁後、一国になった後の諸々もこうやって断片的に考えることはありながらも、過去のことで手一杯になってるので全く…全く取りかかれず……考えることが多くないですか? ていうか動かす手が少なすぎるのでは? どうして頭は一個しかなく、手は二本しかなく、一日が二十四時間しかない中で八時間眠ってしまうのだろうか。
関係ないようであるようでないんですが、「孵化する日3」が6月か7月に出ると思います。引き続き誓約まわりの捏造です。よろしくお願いします。十二国記とどっちが早いかな〜(?)。
で、新しい王様の話ですよ。今までのは前振りです。
グランブルーファンタジーが新しいキャラクターを突然十人もぶち込んできてまして、十賢者っていうらしいんですが、この中にいるんですよね〜王様〜〜〜…。公式くん、十人もいたら誰か刺さるやろ!みたいなレンジがバカでかい攻撃するのやめてくれや。王様とは別にもう一人致命傷差しこんできた奴もいるんでね…。王様じゃないので今日はその話はしませんけど…。
天星剣王シエテ様を仲間にした時の話と似ていて、十賢者を仲間にするのもハチャメチャなドロップ素材を集めまくらなきゃいけないようなので全く進んでおらず、ほとんど作中の会話は読めてないのにもうわかる、絶対好きなんだよなぁ、あの王様………。
ちょっとだけ公式HPから引用させていただきますね。
とある貧民街で人々から「王様」と慕われる、元ガルゲニア皇国の第五皇子、「断罪の皇帝」カッツェリーラ。
わかった?
わかっただろ? もういいだろ?
雑魚ちゃんはひっくり返って仰向けになったまま泣いています。オギャア。
王様、貧民街に居を構え、そこに住まう人々を正しい道へと導くような振る舞いをしているらしい(例えば密造酒を製造・販売していた男に樽に用いる材木の良し悪しを判断する目が備わっていることを見抜き、まっとうな材木商人へと転身させるなど)。王様、貧民街のみんなは正体も名前も知らないけど、王様と呼んで慕っている。王様、本当は音楽が好きで、政治には興味がなかった。
第五皇子だから継承権は遠いもんな…。そうだよな。でも、それが、今は……?
……………。
王様…………。
えっ…この後どうなるの…? 素材…どれ……? どの素材をどこで集めることができるのか、全くわからない。頑張れ雑魚ちゃん。道のりは長いがその分たどり着いた時の感動は…でかいぞ…。多分……。
ほらまたこうやって、本当に好きなのかわからない男を思い込みで好きになって労力つぎ込んでるだろ、なんて効率の悪い生き方なんだ。でもこういう生き方しかできない。業が深い。許してくれ、王様、許してください。
王の概念は象徴だから、全部王様のせいにしてもいいんだろ? そうだろう、俺には何の取り柄もなくて、あんたは俺を導けない。でもそれは俺が悪いんじゃなくて、俺を使えないあなたがいけないんだ、そうだろう王様…!
突然モブ貧民になる芸、やめたいな。
シエテの方も天星剣王とか言っちゃってるから、危ういニオイがプンプンするんだよな。最終上限解放するための素材集めがまっっっっっっっっっっったく終わっていないので、彼に関する全てのエピソードは解放できておらず、おそらくもっともどデカイ爆弾がそのまま残っている最悪の状況です。こわ…でも早く見たい……。
お前は何の王なんだ……。怖いよ〜怖いよ〜〜〜〜〜。
グラブル、例のイベント000後編は大満足の結末でした。最高だったね。
あんな概念を突きつけられたら、全ての言葉が陳腐になってしまうよ。
自分の求めるものがわかっていて、最短距離を突き進むパワーのある生き方。見ていてなんと気持ちのいいものか。
やっぱり何につけても体力なんですよ…。突き落とされた地の底で襲い来る混沌を殴り続け、不死を打倒する力を手にするに至ったその体力。愛ゆえにと宣いながら確たる目的を持ち、2000年の不眠を貫ける体力。目覚めてすぐでも敵をボコしてやろうとする気力、自分がコピーだと知りオリジナルを前にした時に、お前を打倒し取り込めば俺が完全になれると襲い掛かれる体力。
Power is everything.
やっぱり、そういうことなんだな。
というわけで、いろいろな王様の話をしてきましたが、七人は流石に揃えられませんでした。一つの作品から三人も四人も持ってくるの野暮だしな。
でもシンドバッドの生き方が一番好きかなと思います。王でありながらも「自分」の理想を追い続けた男、結局姿を消した男。根深いエゴを取りさらわなかった男。王がエゴを叶えることを肯定したがった男。
はーこわ、怖い。怖いよぉ。
意思が強い男が好きだなあ(統括)。
見ましたか? KING OF PRISM -Shiny Seven Stars- (以下SSS)を。
全国の劇場で公開中です。
ところで3/2(土)公開なのに田舎の方では4/13(土)まで公開されないの、どういう事情なのか? テレビ放送の方が先に始まってしまうのでは?
※今回のキンプリは、4/8(月)放映開始のテレビシリーズ全12話を劇場先行公開するという試みであり、劇場版は3話ずつひとまとまりで全4編を3週間毎に公開、3/2からは第一弾(テレビシリーズ1〜3話相当分)公開中、3/23からは第二弾(テレビシリーズ4〜6話相当分)が公開予定です。
テレビシリーズ化、本当におめでとう。
ということで、見てきたわけですが。
しょっぱな第1話冒頭からスペースざこちゃんになってしまった。
第1話は導入編として、世界観や共通設定、これまでのキンプリ・キンプラのあらすじが説明され、同時にテレビシリーズの立ち位置が表明されています。それがあのキンプリ特有のものすごいスピードで進んでいくものだから、キンプリ・プラ視聴済みの身でもそこはかとない置いてきぼり感を味わうことになりました。
が、これがクセになる……。アイドルの卵たちに置いてきぼりにされるために見に行ってるようなもんだと思っているよ。親切にされたくない。みんなには周りを顧みずに自分の決意を信じてまっすぐ前に進んでいってほしいんだ。その結果として発生する情報量の暴力で殴られたいだけなんだよ。ついていけないやつはバンバン切り捨てていって欲しい、そうして残った連中で、俺たちの偶像を囲むんだ…(ぐるぐる目)。
そう考えるとあのオバレのあり方はすごく理想的なんだよな…。
とか言ってるけど、朝帰りのくだり、正直ついていくのにかなり必死だったよ、何しろアルコール摂取中だからね。ビール飲みながらオバレのライブ生放送見てる気分のところに、オバレとお酒飲んでたら終電逃して朝帰りコースの妄想ぶち込まれると思ってないじゃん? 素直に「えっ?」ってなってしまった。
プリズムジャンプで朝帰りを表現するな! 5歳児だって見にきてるんですよ(ビールのカップ振り回しながら)。
それで、物語としては、前回(キンプラ)速水ヒロがキングオブプリズムの座に選出されたプリズムキングカップには不正があった! と主張する法月仁によってプリズム1なる新しい大会が設定され、エデロのみんなとシュワロのみんながガチンコ対決する流れになります。
第1話でこの説明があり、そして続く第2話からはそれぞれのメンバーにスポットライトが当たり、各々自分が抱える問題に向き合い、決意を新たに大会に挑んでいきます。
今回、第2話では立花ユキノジョウが、第3話では香賀美タイガがピックアップ対象でした。
いや〜しんどかった、見ててあまりにも辛い。もちろん最後には救いというか、解決が用意されてめでたしめでたしとして落ち着くんだけど、そこに至るまで、たった1話25分の中にここまで感情を詰め込めるんだ!? という驚きとともに、彼らの抱える問題の、個人的なようでいて大いに普遍性をはらんでいる様にやっぱり泣いてしまう…。
キンプラでプリズムキングカップへの出場を辞退し、シンに出場させるように提案したユキノジョウが抱える問題。歌舞伎一家の跡取りで、歌舞伎役者とプリズムスタァの二足の草鞋を穿く彼は、どちらの舞台でも自分の演技を掴みきれずにいる。
どちらもやりたいことのはずなのに、どちらかに打ち込めば、そうではなかった方から逃げていることになってしまうのか? ましてや歌舞伎界では連綿と続く一族の血を受け継いだ唯一の身であり、父も母も、ユキノジョウには歌舞伎役者として立ってほしいと強く願っている。
答えを出せないままプリズムカップには出られない、と考えたユキノジョウは、キンプラではシンに出場権を譲ってしまった。
SSSでシンは「あれはどうして?」とユキノジョウに直接尋ねたものの、ユキノジョウは「シンのプリズムショーが見たかった」とはぐらかしてしまう。素直なシンはこれを聞いて喜び、結局ユキノジョウの本音は明かされない。
これを影で聞いていたのが、ユキノジョウと同学年、高校2年生組の十王院と鷹梁。この時のふたりの表情、もう最高。
その後、高校生3人は風呂場で一緒になり、ユキノジョウが己の境遇、不安、焦りなどの感情を吐露する流れになります。
ただ、ここすごく真面目なシーンのはずなのに、風呂場で繰り広げられてるおかげで全員全裸なんだよなあ…ユキノジョウが握り締める拳なんて、お尻の真横でさ…劇場のどでかいスクリーン満面のユキノジョウの生尻、見られるのは今だけですよ。
劇場へ行きましょう。その際には是非ビールをどうぞ(何の話だ?)。
そんなこんなあって、ユキノジョウは無事に課題を乗り越え、プリズム1の舞台に立ちます。
そうして始まったプリズムショー。歌舞伎役者として、そしてプリズムスタァとして。どちらの名にも恥じぬプリズムショーを作り上げたユキノジョウの姿に、歌舞伎役者としてのユキノジョウを望むばかりだった父母も心を打たれます。
プリズムスタァとしてのユキノジョウは、プリズムジャンプが飛べなくなってしまったシンに指導を施したり、そもそもプリズムキングカップへの出場を推薦されていたのは彼ですから、相当の実力があったと推測されていました。そんなユキノジョウが、歌舞伎の所作を取り入れた独自の4連続ジャンプを成功させ、圧倒的な地力を披露してくれたのです。
プリズムショーで泣かすの、ほんと勘弁して。もう、歌とか全然記憶がない。
2回見ても、3回見ても、後の流れがわかっているのでこの後ああなるんだ…なんて考えるせいで逆に泣くシーンが増えてしまって、結局見るごとに記憶を失う時間が長くなってるからな?
キンプリ〜キンプラで描かれてきたことを思い出すシーンがたくさんあって、今までシンを中心に描かれてきた生活、時間、人間関係を私たちが知っているからこそ成り立つ濃厚な25分という感じだった。
で、だ。
十王院と鷹梁だよ。
どうすんだよあいつら、感情バカ重いっていい加減わかってきてるぞ!?
十王院、「俺たちの代表として、ユキノジョウのプリズムショーが見たかったんだ」って面と向かって言っちゃう。悔しいよって。長い時間暮らしてきたエーデルローズの進退を、年下の、この前入ってきたばかりのシンに背負わせて不甲斐ないよって。
だけど実力がものを言うこの世界で、自分の力では通用しない。ユキノジョウならって思ってた。だけどそのユキノジョウも万全ではなかった。
それでも、ユキノジョウの抱える問題を知った時には「一族の重圧って、受けたことのある人間じゃないと理解できないよね」だなんて、同調しちゃう。十王院財閥の嫡男が受ける重圧。専務取締役という立場とプリズムスタァという夢。とはいえスタァとしての実力は未だ描かれず、どちらかというとショーには消極的な印象さえ受ける。
十王院回、そこはかとない予感だけで今からもうすでに辛いぞ。
そして鷹梁、あいつも絶対やばいからな。
ユキノジョウがシンをケムに巻いてしまった時のあの顔。
悩みがあるのなら相談してほしい、力になりたい。そうやって言いながら。
プリズムキングカップにはシンを推薦すると言うユキノジョウに、「君がそうしたいのなら、僕もそれがいいと思う」と笑いかける。それを聞いた十王院は顔をしかめる。
お、お前の意思はどこだ〜〜〜〜〜〜!!!!!
お前はどこにいる? どこにいたいんだ?
プリズムショーに消極的なのは鷹梁もそうだと思う。高校2年生という年頃、将来を考えてしまうのかもしれない。スタァとして芽が出ない自分は、どうすればいいのだろう?
更に一族の重圧のくだり、鷹梁にも適応されてしまうのだろうか? SSS、家と自分みたいなテーマは確実に含まれている。
本当に怖い。
十王院回(4話)と鷹梁回(6話)を含む劇場版第2弾は3/23(土)から公開開始!
怖いよ〜〜〜〜〜〜〜!!!!
5話は高田馬場ジョージ回だから、これはこれで絶対つらい、ズンドコから這い上がる男が見れると期待している、這い上がった先でしがみつき、なお上を目指す男、大好きだからよ!
ハァハァ、本当にやばい、書きながら思い出し涙をこぼしてしまった。今公式HP見てたらおまけムービーが週替わりでやってるみたいだから、今週また見に行ってしまうかもしれない…。オタク、業が深いので何度でも死に、何度でも蘇るぞ。
以上、SSS感想でした。
香賀美回は、なんというか、美しかったです。
仁科への香賀美の思いとか、それにまつわるあれこれとか、香賀美が仁科やシンのプリズムショーと出会って何を学び、どう昇華したのかが見られて、本当に良かった。
それはそれとして仁科の人タラシムーブが度を越してて震え上がってしまった。香賀美、気をつけろよ……。仁科はオバレの手にしか負えないと私は思うね。あんわかにはかわいそうなことだが…。
春コミお疲れ様でした。当サークルスペースにお立ち寄りくださった皆様に感謝申し上げます。普段は全く一人で漫画を描いているのですが、イベントに出ると見てくださる方や手にとってくれる方がいらっしゃって、このCPの二人は架空だけど架空じゃないんだな…と感慨深い思いになります。
新刊2種の通販を開始しました。boothにてご確認ください。
今後の予定については、スパコミ(5月)どうしようかなと延々悩んでいましたが、悩んでいる間に定員オーバーしたっぽくて強制的に参加見送りになりました。しょうがないね。
次はこういう内容の本を出したいな〜という考えがそれぞれのCPであって、ただ私の腕は1セットしかないので、どの順番で出すかというのが悩みどころです。
これまで1年に3-4冊くらい出しているので、今年はあと6月くらいに1回と、10月くらいに1回と出られたらバランスはいいのかもしれない。
ただ、スパーク(10月)がもともとオールジャンルを1日でまとめて開いてくれてて、漫画ジャンルとゲームジャンルまたいで活動している身には非常にありがたかったんですけど、今年は会場の問題から2日間開催になり、漫画ジャンルの日とゲームジャンルの日に分かれてしまうようで、どのジャンルで出るのかでかなり状況が変わってしまうな…と思ってこちらもいまいち決めかねています。2日とも出るのはどう考えても体力的にしんどいもんな。
こんなことならイベントに出ないで通販だけやるのも悪くないなとは思っています。本は出したいので…。
とはいえ半年先のことなんてわかるわけないじゃん? 今まさにグラブルでボコボコにされてるけど、1年ちょっと前にはグラブルのグの字も知らなかったわけだし…(昨日システムで確認したらプレイ開始から365日目だった。怖い)
【000】はベリアルが出てくるシーズンイベントの3作目にして完結編のタイトルです。
今、前編と後編の間のインターバル期間中で、これは前編でズタズタにされた精神を少しでも回復しておけという公式の心遣いなのでしょうか? むしろ感情の見つめ直しが進んで、より傷が深くなってるぞ。
グラブルやってよ!!! 私と一緒に死んでくれ!!!!! と懇願して回ったのも虚しく、知人は誰もグラブルを始めてくれない。興味がないものがしょうがないし、逆に考えるとネタバレ注意する必要がないということだと思いますので、以下あらすじと感想です。
【あらすじ】
よくわからん。
いや、だって難しいんだよ概念がよ…。
『どうして空は蒼いのか』→天司サンダルフォンが【厄災】を引き起こす。
『失楽園』(ど空蒼2)→【厄災】後、サンダルフォンが繭で眠らされている中、天司長ルシフェルが殺される。色々あってサンダルフォンは天司長の役割を引き継ぐ。
『000』(ど空蒼3)→???
天司:グラブル世界の元素(火、風、土、水など)を司る概念。星の民によって作られた存在。
星の民:かつて空の民(主人公たちが含まれる種族)を襲い、覇空戦争を引き起こした異種民族。今ではほぼ姿を見せない。星の民ルシファーはルシフェルや他の天司を作り出し、それぞれ元素を管理させた。
ベリアルもルシファーに作り出された天司のひとり。【狡知】を司るとされる。
先述の四元素を司る四大天司やルシフェル、ベリアルはヒトと並ぶ知能を備えたが、彼ら以降に生まれた天司らは、作られる際に持ちうる知能に制限を受けている。また、より下位の存在として星晶獣が作られているが、これは意思が薄かったり、欲求に抗えなかったりするなど、より制限が強い様子。星晶獣は星の民が対空の民の兵器として作ったものとされているため、破壊行動に引きずられる側面が大きい。
ちなみにサンダルフォンはルシフェルが作ったので少し枠が違う。
そもそもの始まりは星の民の研究者ルシファーが天司を作ったことまで遡るのですが、「なぜ作ったのか」についてが『000』で語られているわけで…。
端的にいうと「世界を滅ぼすため」になるという、こう、スケールがでかい男ですよファーさんは。
ファーさんが世界を滅ぼすためにしていたこと、あれこれ手伝って、世界を滅ぼすことが何を意味するのかも全部わかっていたっていうのがベリアルだったということが、000前編で判明してしまいました。ベリアルはずっとファーさんの望みのために動き続けてきたわけですね、『失楽園』で初登場して我々プレイヤーのど肝を抜きまくったあの言動、全部ファーさんのためだったんですよ。
ていうかベリアルはファーさんが作ったわけだから、あの性格というか生き方全部ファーさんが設定した? の? アイヤー…
こわ…
そしてファーさんは2000年前に一度死んでいるんですよね。ルシフェルらの反乱によって。そのあとも天司たちは生き続け、空の世界を存続させてたわけですよ。そんな中で、ベリアル。ファーさんが死んだあと2000年経って出てきて、ルシフェルの体を強奪しファーさんの首とつなぎ合わせ、ファーさんの望む終末を一緒に見ようと頑張ってるお前。
ベリアルはファーさんの昔の協力者バブさんと再会し、SEKAI NO OWARIに向けた取り組みを始めたわけですが(ルシフェルを殺したのはバブさん)、ファーさんと一緒に世界が終わる様を見届けるんだ、というのが今わかっているベリアルの望みなわけで。
いや、あの、ちょっと、健気がすぎませんか? 一途ってこういうこと? 2000年間待ち続けた男なわけ?
攻めじゃん……
念願叶ってファーさんは目を覚まし、終末に向けた最後の手を取ろうとします。主人公やサンダルフォンはこれを止めるべくファーさんを追おうとしますが、そうは問屋が卸さない、ベリアルは「2000年待ってた俺を置いてお前たちがファーさんを追うのか?」と立ちふさがるわけです。
感情、重……
そんな…そんな数字出されたら誰も勝てないじゃん……
『000』になって突然2000という数字が飛び出てきて、凶悪な使われ方をしているので完全に震え上がっている。
ルシフェルの反乱の後、ファーさんと一緒にベリアルも姿を消していたんですけど、天司はみんなベリアルも死んだものだと思ってたみたいなんですよね。天司は有事の際には人の姿をとりますが、通常時では姿なく世界の空気として蔓延しているものらしく、世界のどこかに同類がいればそうと感じることができるようです。でも誰もベリアルのことを感知できなかった。気配を消すことは可能でも、2000年もの間続けることは並大抵のことではなく、「人間でいえば不眠のようなもの」と言われています。
2000年の不眠、2000年の我慢、2000年の、……。
2000年の重みですでにあっぷあっぷなんですけど、こんなのはまだまだしんどさの一要素にしか過ぎなくて、天司/星晶獣の幸せとは?とか、生きる意味の問いかけとか、受け入れてしまうことの罪深さとか、様々な概念でボコボコにされています。
ベリアルの人間性(人間じゃないけど)も、行きずりの女をさっくり殺してしまうとか、自分が仲間に引き込み、慕ってくれていた後期天司へのあの仕打ちとか、そういうもので大興奮&&大打撃。わ、わかってたのに〜こういう奴だってわかってたのに〜わかってたから好きになって、本当にその通りで予想できてたのに防御できずに結局ボコボコ。
前編だけでこんなことになってるのに、後編が始まってしまったら私たち一体どうなるの?
薄目で読んでたのに眼球飛び出た名台詞
「頼むよ、俺の救世主」
これを超える台詞がまた出てきてしまうのか?
オタクは何回死ねばいいのか。
グランブルーファンタジー『どうして空は蒼いのかPart.Ⅲ』【000】後編は3/7(木)17:00スタートです。
エリザベート大好き!
本当は宝塚大劇場に行きたかったものを、ことごとくチケットが手に入らず、なんとか手に入れたチケットで先日、東京宝塚劇場公演を拝見してまいりました。
宝塚の演目で何が好き?ってなると一番はどうしてもこのエリザベートになるんですよね…改めて要素を並べると完全に性癖になってしまっている。詳しくは後述します。
と言ってもエリザベートは宝塚のオリジナル脚本ではなく本家本元オーストリアの方で生まれたものを日本に輸入して小池修一郎がいい感じに宝塚ナイズするという方式になっているので、これを宝塚でーす!と大声あげてると怒られるのかもしれない。でも本家や東宝版を見たことがないんですよね…。今後機会があれば見てみたいなと思っています。
ただ、個人の趣味の話ですが、宝塚の演目で好きなものをあげるとスカーレット・ピンパーネルとか、アーネスト・イン・ラブとかどうしてもそういう原作ありの作品ばかりに偏ってしまうので、宝塚オタクを自称するときに少し気後れする部分があるんですよ…宝塚のが好きなので確実に宝塚オタクなんですが…。
あと作品とは全然関係がない話ですけど、今回初めて平日の夜の部の東京公演に行きまして(昼間の兵庫まで行ってることが多いので)、客層が全然違うことに驚きましたね。もちろんエリザベートという演目だったから?という部分もあると思いますけど、退勤後のスーツのおじさんが今まで見たことないくらいたくさんいて、普段は有閑マダムみたいな人に囲まれて見ているので新鮮でした。
宝塚版エリザベート、話の筋はわかってるし、歌も多分全部歌えるくらいには何度も見聞きしている(劇場に行くのはもちろん、CDやDVDも見ている)のですが、それでも再演決定するたびに大劇場で観たい!という一念でチケット戦争に乗り出してしまうのは、「ナマ」だからこその魅力を一段と感じる作品だからだと思います。
多人数コーラス曲もたくさんあるし、ソロ曲でもみんな声張って歌ってくれるので歌の圧がすごくて、CDで聞くのとは迫力が段違いなんですよ! 私は特にやんややんやした曲が好きなので! 舞台上の演者達から発せられるちからの集合を、直接浴びたい。
名指しすると「最後の証言」のコーラスがめちゃめちゃ好きなので永遠に聴いていたい。
そんな何種類も何回も見ているオタクが今回見てここいいな!ここ特徴的だな!と思った部分を上げていこうと思います。
概要はこんな感じ。
・シシィの生命力がすごい
・フランツの声が甘い
・皇太后があまり強くない
・ルキーニが閣下のこと大好きすぎる
・シシィの生命力がすごい
もともとシシィは元気一杯おてんば娘なので生命力抜群なのですが、1幕で皇帝と一目惚れしあって結婚したと思ったら皇太后にはいびられるし皇帝は頼りにならねえしこのクソの世の中〜〜〜〜〜死んでやる〜〜〜〜…いや誰が死ぬか!生きてやる!!!!私の意思で!!!!!!!! の気持ちが存分に詰まったソロ曲「私だけに」! シシィの自由への決意を象徴する力強い歌いっぷりに感服いたしました…。「強いな…」の第一印象は覆ることなく、フィナーレ目前のデュエットあたりでも底から輝いていた印象です。コーラス曲が好きなんですけど、こうやってガッツリ聴かせてくれるとお前のことも好きになっちゃうだろ〜〜〜!!!
・フランツの声が甘い
歌声がなんだかすげえ〜〜〜〜甘くて、すげえ〜〜〜〜〜優しくて、ホァーーーン…そっか……って感じ…(?)。こいつ苦労してないのか…自覚していないのか…という感じ…。どこが特にそういう印象を与えてくれたのかいまいち覚えてないのですが、とにかく「甘さ」が前面に出ていたように感じました。シシィもこの甘さに惹かれたのかな〜?
・皇太后があまり強くない
これは私の勝手な思い込み?印象?なんですが、皇太后ゾフィーって「強い」女(「宮廷でただ1人の男」とまで言われているため)のイメージが強く、国を生かし支えるための強さ・厳しさ・激しさを隠さず持ち続け、その頑迷さが疎ましくも頼りになるのは確かだと感じさせる女性だと思っていたものが、今回はあまりそういう方向の造形ではなく、多少の物足りなさを感じたのでした。噂によると、マザコン皇帝を溺愛する母親の側面に寄った演じ方をしているとの発言もあったようで、それならなるほどなと腑に落ちたわけです。もちろん以前のゾフィーの演じにも息子への偏愛はあったと思いますが、それでも皇太后として国を守る優先度の方が高そうな人だなと今まで感じてきたので、息子の方を優先しそうな今回のゾフィーには少し驚きました。
強くないゾフィーを最も感じたのは、「(娼婦のデリバリーを)取ったことあるのね? 大司教様」セリフでした。あんまり威圧感がなかったというか…。別に威圧感がないといけないシーンでは全くないんですけど…強い女には強くあるべき全てのシーンで強くあって欲しいので…。
・ルキーニが閣下のこと大好きすぎる
これねえ、これが本当に、今回一番グッときた部分なんですよ。
閣下がルキーニと同じ壇上に上がるシーン、ルキーニの目線が大抵閣下を追いかけているので…。あとあの慇懃無礼にもなりかねない大仰なお辞儀もなんだか心底敬服しているように見えましたし、何より閣下が登場すると、顔やお声が本当に嬉しそうに弾むんですよね。民衆を扇動する閣下の呼びかけに合いの手を挟むお声が本当に、本当に楽しげなんですよ〜〜!!
あとこれは役には関係ないんですが、役者の顔が良すぎません?
オタクの割にはあんまり役者に詳しくないのでこんなに顔のいい人間がまた…いるもんだなあ…としみじみ思い、気が付いた時には役者のブロマイドを3種類購入していたのでやっぱり私はオタクです。
ルキーニ役を演じている間はヒゲを生やしていて、群舞〜フィナーレではそのお髭は取られてしまうんですが、そのとった顔、顔がいい、顔が…。
ルキーニ役は顔を浅黒く塗っているので、余計にハンサム(死語)に見えてしまう向きもありつつ、それでも圧倒的に顔がいい…。
ルキーニの時の表情は悪役然としているというか、ニヒル方向に寄りつつ、精神錯乱のふりをしているな!と言われたりする程度にはブッツンしちゃってる系の人間の顔をしている(どんな顔?)ので、ルキーニじゃない顔を見た時に「本当にお前がルキーニだったのか〜!?!?!?!顔がいい〜〜〜〜」とひっくり返ってしまった。ブロマイド買ってじっくり眺めたらルキーニの時点で既に顔が良かった。
以上が大まかな感想です。
いや〜良かった〜〜〜〜めっちゃ良かった〜〜〜〜また見たい〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!何度でも見たい〜〜〜〜〜〜!!!!!!
冒頭でも述べましたが、劇場におじさんたちが多かった中で、次期の演目「ファントム」のポスターを眺めていたおじさんが隣のおじさんに「これもチケット取りにくくてさ〜〜〜」と語っていたのが印象的でした。マダムもおじさんも私もチケットを頑張って取るんだよ。人類は平等なんだ(本当か?)。
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で〜性癖の話をしてもいいですか〜…。
母親の胎内にいた頃から宝塚楽曲の洗礼を浴びせ続けられてこの世に生を受けているので、宝塚歴がもう年齢飛び越えてるような生き方をしてきているんですけど、そういう生活をしているとですね、宝塚の世界観になんらの違和感を抱く余地がないんですよ。そうするとどうなるかっていうと、その、なんでもいいので男役の舞台写真を見て欲しいんですけど、見ました? 見ましたね? そうなんですよ…デコなんです………。
私はデコを出した男が大好きです…。
しかもトート閣下の髪型は大抵長髪&ゆるウェーブで、黒燕尾群舞の時にはそれを…後ろで1つにまとめて結わえてるんですよね……。
この尻尾、めっちゃ見覚えあるよな…な……。
さらにそこから視線を少し下にずらしていただくと、もう、すぐに見えるんですが、衣装の色がトンチキなんですよね……。どんな人生を歩んできたら紫色のスーツや、ピンクスパンコールで彩られたジャケットや、黄色いサッシュを身につける場面に立ち会うことになるんだ…こういう人生です。
ゲームジャンルだとキャラクター造形のポイントとしてイメージカラーというか、はっきりした色彩を与えられるのはよくあることだと思いますが(いまだにどうして鷹王の色彩が赤いバンダナ&布!緑の外套!黄色いインナー!なのかを理解できてない。髪・ベルトは黒だし、何色を中心に考えたらいいのかわからない。そもそもあの赤い布はなんなんだ?)、最近の雑魚ちゃんは現代日本を舞台に生きている推しにもショッキングピンクのシャツを着せたくて着せたくてたまらないんだもんな…病状が悪化してるんだと思います。
あとカップリング観も特にエリザベートに引きずられてるのかもしれない…と最近気づき始めました。というのも、それこそ最近のCP傾向が人外×美みたいなとこがあるじゃないですか。エリザベートの公式CPを見るとですね、1つが結婚までしたフランツ×エリザベートで、もう1つがトート閣下×エリザベートじゃないですか。トート閣下が何かっていうと、死の擬人化なわけですよ。死という概念そのもの! まさかの生物ですらないという…これって究極の…人外なのでは……?
エリザベートが死後、閣下の手を取り死の世界へと導かれていくシーンで、彼女は「連れていって 闇の彼方遠く 自由な魂 安らげる場所へ」と歌うんですよ(「愛のテーマ」より)。
自由を求め、多くのものを犠牲にし、苛烈に生きてきた彼女が最後に求めたものが安らぎで、それは死の先でしか見つけられなかった。逃げ場として死を意識しながらもそれを選ぶことができなかった彼女が、ルキーニによって不意にもたらされた死を受け入れたのは、「死」への愛が芽生えていたからなのではないかと思います。フランツ(あるいは多くの人々)は「人が死を愛するわけがない」と考えますが、何度も死と近く向き合ったエリザベートが必ずしも死を憎み、遠ざけようとしていたかと言えばそうではないのではないでしょうか。
何が言いたいのか、つまり、相容れないはずの存在が近くにあることで心惹かれずにはいられない側面を、自推しに…付与してしまう……性癖です………。
てか、この世でや安らげない男が好きすぎんだよ。
何も知らずに安穏と暮らしてゆくにはあまりにも罪深い男。
生まれる時代が違っていたら、出会った人間が違っていたら、もっと楽な──穏やかな生き方もあっただろうに、それができなかった男たち。
生き急ぐ男、大好き!
ところで「エリザベートはフランツを愛していたのか? トートを愛したのか?」の問いが立てられている中で、明確な答えは示されていません。多分。
宝塚版は宝塚の枠組みから考えてトート(トップ男役)×エリザベート(トップ娘役)で確定のはずですが、じゃあフランツを愛していなかったのか?と言えばそうではないと思います。人間という枠組み(どんな枠組みだ?)の中でエリザベートが愛したのは、確かにフランツだったと思います。だけどエリザベートは「自由」の概念になりかけていたのでは? あるいは自由の概念になることを望んでいた、ということは考えられませんか? 死後、自由の概念になったエリザベートは、死の概念トートと概念同士愛しあえるようになったのでは…と考えると、概念と人間はうまくカップリング出来ない説が浮上してくるわけですね。
もしもフランツが何らかの概念を獲得していたなら、黄泉の国でもエリザベートの愛を巡って閣下とバトることも可能だったのではないでしょうか。ただ残念なことに、劇中でフランツは概念に昇華できる何も付与されなかったと思います。
それで、死後「自由」になったエリザベートは「死」と寄り添うことになったのだと思いました。
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以上、感想だったり性癖だったり解釈だったり話があっちこっちに行ってしまいましたが、まとめて2018エリザベート観劇の振り返りとさせてもらいます。
特にプロットもなく書いているので話がぐちゃぐちゃで申し訳ないです。