ネサラとムワリムに関する小話
シエネの街区はどこも明るい。もちろん街角にうずくまるぼろきれがないわけでもないのだが、そこはシエネと呼ばれない。
ネサラはまるで旅行者のように辺りを見回しながらレンガが敷き詰められた道の上を歩いていた。他のどの生き物よりも軽やかな体。足音はしないも同然だ。
道に面した建物の窓から声がかかる。名物の包み揚げだ、パンだ、菓子だ、茶だ、ジュースだ…、その呼びかけは道慣れぬ客を呼び込むもの。本当の旅行者であれば声に応えて商品の一つや二つでも買おうものだが、ネサラはとっくにこの街に慣れ親しんだ存在であった。
ネサラはすんと鼻を鳴らす。いつも食物のにおいがする街だ。中央の神殿や貴族の居住区であれば楽しむことのできないにおい。下町の散策はネサラがベグニオンを訪れるたびに行われる、ちょっとした楽しみであった。
ただ、今日は何か落ち着かない気配がある。
「…獣のにおいがする」
獣牙のそれにはおよばないが、鳥翼の鼻も決して鈍くはない。
いつも通りの甘いにおいにまじるように、少しひっかかりのあるものを感じる。
ベオクが愛玩用だとそばに置く小動物よりも強いにおいだ。
急ぎ足になりながらにおいをたどる。人々の声からは特別な変異は聞かれない。
「おや」
次にネサラの口をついて出た声は、頓狂なものであった。
そこにいたのは大柄のラグズ。虎の男。しかも、そいじょそこらの「その他大勢」ではない。
「珍しいって思ってる?」
雑多に並んだ日用品の向こうから、店主と思しき女が話しかけてくる。
「毎週買いに来るのよ、ざくろ」
言われて男の方をみれば、彼が向き合っているのは乾いた紅色の果実の山で、ひとつひとつ手に取りながら選びとっているようだ。
「虎があんなものを好むかね」
「大事なお人の好物らしい」
「へえ」
あの獣がべったり傅く相手であるところの少年を、ネサラも記憶の端にとどめていた。その少年もベグニオンの皇帝の元に役職を任されているし、あの獣自身も同じ境遇に身を置いていることも知っている。
ざくろの陰から年頃の娘が顔を出し、何事か虎の男に話しかけた。彼も、穏やかに受け答えをしている。随分なじんだ様子だ。
周囲のベオクの目は優しい。彼は受け入れられている。心も随分ラグズに傾けられていることだろう。
ネサラはふと足を持ち上げた。滑るように石畳を移動する、己に近づいてきた人影に、虎は目線を寄越した。驚いたように眉が持ち上げられる。
「やあ久しぶり」
ネサラは口角を持ち上げて挨拶をする。
「よかったらお茶でもどうだい、石の街は暑いだろう」
からから。グラスと氷が触れ合って心地よい音を立てる。
「ムワリム」
「はい」
二人がけの席に対面で座っているのは、少し路地に入ったところの茶店であった。ネサラが頼んだものは、少し酸味のある果汁が混ぜられたフレーバーティー。ムワリムはスタンダードな濃いめの茶。二つともグラスが汗をかくほどに冷たい。
ムワリムは話の続きを待ってネサラの様子を見ているが、ネサラにはさしたる話題があったわけではない。呼びかけたのだって、名前を確認したかっただけだ。ネサラが仕事として顔をあわせるのは彼の上司たる少年の方ばかりだったので、名を思い出しかねていたのである。
「翼をしまっているのはなぜですか?」
ネサラの沈黙を前に、彼はそう切り出した。
「……ラグズの姿を晒すことはまだあなたにとって危険でしょうか」
その表情はいたって真面目なものだ。それも当然のことだろう。彼の職務はベオクとラグズの間を取り持つこと。ベオクに虐げられたラグズがあればその解決に乗り出し、ラグズがベオクを傷つけることがあればことをつまびらかにし裁きの場を用意する。
「いや」
ネサラはそっけない否定を投げたが、それだけでは足りないらしい。
「邪魔なんだ。あれがあると椅子に座るのも一苦労で」
木製の椅子は、背もたれに寄りかかって力を込めるとぎしりと軋んだ。
「邪魔だからってどうにかできる奴なんか、そうそう多くないけどな」
おまえのところの娘には出来ない芸当だろう、と意地悪く笑うと、彼は頭にかぶった白い手ぬぐいの奥で力強い眉を顰めた。獣の形の耳がぴくりと揺れる。
ネサラの耳は動かない。不便に思ったことはないどころか、感情に合わせて動いてしまう器官など煩わしいことこの上ないのでこれでいいと考えていさえする。
「ビーゼと話されたことはおありですか?」
「個人的にはないかな」
言われて初めて名前を意識する。やはりキルヴァスの生まれではないのだろう。名付けがネサラの知る鴉のものとは違う気がする。
「あれは鴉じゃないだろう」
それを、誇張した表現でムワリムに確かめようとすると、緑の産毛が逆立つのが見える。
「…言い方を変えよう。あの娘はキルヴァスに縛られていない。これでいいか?」
「キルヴァスに関わりなければ鴉ではないのですか?」
怒りを含んでいるのに静かな声音。あのとき声が聞けていたらこんな風に話したのだろうか。ネサラは彼の胸の内を怒りか恐れかと問うたが、答えは得られなかった。
「鴉ってのがどんな奴か、おまえだって知ってるだろう。狡猾、傲慢、嘘つき、裏切る寝返る騙し討つ」
指を折って数えるように取り上げていけば、ムワリムは唇をへの字に結んで黙ってしまった。沈黙は肯定だ。わかりやすくて大変よい。
「だがあの娘はどうだ?出自のこともあるだろうが、性格が争いごとに向いてるようにも見えない」
「…彼女は優しい。傷ついた仲間に寄り添い手を貸してくれる。そこに謀略や略奪が伴ったことなど一度たりともありません」
言い切る口ぶりに迷いはない。ネサラはおもわず目を細めた。窓から光が差し込むのみの狭く暗い店内で、眩しいものを見た心地がした。
「だろうなあ」
目の奥がツンと苦しい。意図しない水分が下まぶたから滲んだ感覚があったが、まばたきを数回するうちに乾いてしまう。
「俺たちが何代もかけて築き上げた虚像は知らないところで壊れてた」
「……ネサラ殿?」
濡れたせいで指の滑るグラスを掴んで口をつける。茶葉の味は随分薄いが、綺麗な水と果汁が喉を潤わせてゆく。ムワリムも同じように茶を飲み込んだのを見て、再び口を開く。
「鴉は強くない。美しくない。悪名高くて、厄介でーー」
「そんなことは」
「あるだろう?そうじゃなかったら俺たちがやってきたことはすべて無駄になる」
露悪的な物言いに、ムワリムは慌てたように口を挟みたがったが、ネサラは手のひらで制止する。
「実情はどうあれ、その評判だけで鴉を奴隷に求める動きが減ったことだけは確かなんだ」
「……あなたは」
「でも帰らせてやることはできなかったな」
一度奴隷になった鴉はキルヴァスに戻らなかった。ヒトの管理下で生まれた鴉は奴隷になって、その子も奴隷になって、生まれたときから奴隷たる環境に身を置いていた鴉たちは、キルヴァス王が行った教育も教唆もまるで知らない。
だから元奴隷の連中は、ネサラが求めた鴉の姿ではない。
しかし彼らこそ鴉なのかもしれない。
歪められなかった鴉の心のあり方。
虐げられた魂が、どのようなあり方を望んだのかネサラは知らない。
大陸中に席巻する鴉の悪評を望まなかったことはおそらく確かだろうけど。
「こんな話がしたかったわけじゃなかったんだが」
神妙な顔つきのムワリムが偽りの慰めでもその場しのぎの否定でも口に出す前に、ネサラは自虐的に笑って見せた。話は終りだ。ビーゼはネサラとは違う。他のキルヴァスの民とも違う。大事に想われているのなら、彼女なりの生き方ができているのだろう。
「では、なぜ私に声をかけたのですか」
「仕事熱心な奴の邪魔をするのは楽しいって、聞いたことがある」
よっぽど幸福そうにざくろを選んでいた眼差し。雪山で対峙した時からムワリムの主人は変わっていない。
その点ネサラはどうだろう。奴隷だったのは、自分の方ではなかったか。金銭のやりとりなど痛む心には何の慰めにもならない。虐げられて跳ね返す術を持っていなかったのは。
「よかったら、このあと私と共に来てはくれませんか」
「なぜ」
「ぼっちゃんと…ビーゼも、きっとあなたを気にしている」
聞き入れるほどの理由ではない。なんの魅力もない言葉。
「……ぼっちゃんねぇ」
「!あ、いえ、その」
「おまえが上司をなんと呼ぼうが好きにすればいいけど」
脳裏に浮かんだのは世話焼きの老鴉だ。あれも優しいといえばそうなのだろう。もちろん厳しさ激しさなども持ち合わせている。
他の鴉がどうあっても。日々の生活の中で鴉の評価が高まっていこうとも。ネサラの骨身にしみついた悪事だけはなくなるはずがなかった。