先日、5/31はアイシールド21に登場する金剛兄弟の誕生日でした。
そこでTwitterにはちょっとした漫画を載せました。
これを描くにあたって原作の兄弟のあたりを読み返したことで、種々の感情がフツフツと湧き上がってしまったので今回ブログにしてしまおうと思った次第です。
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金剛雲水(兄)と金剛阿含(弟)は神龍寺学院アメフト部に所属する双子の兄弟。
兄は禁欲的でストイック、一方の弟はそれとは真逆で己の欲望に忠実、女性関係も奔放で、暴力沙汰もしばしば。
神龍寺学院は仏教系の団体を母体とした神奈川有数の名門校として描かれ、入試難易度も極めて高いとされる一方で、アメフト部も創部以来無敗で関東大会を制覇し続けてきた強豪チームとして登場します。
では、同じ日に生まれ、一卵性双生児ゆえの同じ顔を持ち、同じ高校で同じチームに所属した2人は、同じものを手に入れてきたのでしょうか?
答えは否でした。
「阿含 俺がお前を最強にする」 (21巻185話より)
幼少の頃からずっと、雲水は阿含の活躍の陰に隠され続けていました。
阿含はあらゆることを雲水よりも先に習得し、またあらゆることをトップレベルでこなしてゆきました。
雲水はトレーニングを積み、努力を重ねてきましたが、阿含は天才であり雲水は凡才であるという周囲の評価が覆ることはついぞありませんでした。
神龍寺学院への入学についてもそうです。
阿含はスポーツ推薦に飛び込みで合格し、雲水は一般入試受験でその背中を追います。
阿含を最強の選手にするために。
雲水は阿含を信じています。
阿含が最強だと。
それが真実である限り、己の無力も敗北さえも報われると考えている。
一方で阿含は雲水の思惑を分かった上で、顧みる素振りを見せず奔放な振る舞いを続けます。
神に愛された男。100年に一度の天才。
だからこそ許される振る舞いを。
人を馬鹿にしたような態度も、練習やミーティングに参加しないことも、試合に遅刻してくることも、飲酒に喫煙、不純異性交友さえ、成果主義を盾にして全てが許されてしまいます。
それが阿含にとって幸いだったかはともかくとして。
雲水が阿含の素行不良のフォローに努める描写はありますが、当の阿含は全く気に留めません。
個人的には、そもそも雲水がどこまで本気で阿含の振る舞いを阻止しようとしていたのか疑わしいと思っています。
雲水にとって阿含の才能は絶対的なものであり、その素行は才能の輝きを損ない得ないことを、これまでの経験上身に染みて知っているはずだからです。
そんなある意味で屈折した感情を抱えた2人にも、やがて転機が訪れます。
関東大会での敗北です。
それも、阿含が特に凡才だと見下し、嘲ってきたチームに対して。
そもそもアイシールド21では天才と凡才、才能と努力の対比が常に描かれ続けており、神龍寺以前にも様々な形で語られてきていました。
努力は尊いものとして描かれ、努力する天才という存在が作中でも評価高く、また主人公のライバルとしても設定されてきていました。
その上で、初めての敗北を経た阿含は、物事に本気で取り組むことへの意欲を見せます。
スイッチの入った阿含に、より強くなる予感を感じた雲水は期待を抱きますが、自分の問題とも向き合わざるを得なくなります。
つまり、凡才は本当に天才に勝つことが不可能なのか?
挑むことさえ忌避してきた己の行いは、過ちではなかったのか?
関東大会中にも雲水は様々な天才と凡才たちの戦いを見てきました。
凡人の限界を受け入れ、天才を支え活かす道を選んだ自分とは異なる選択をした凡才たち。
決して折れることのない野心をもち、もがく凡才を。
雲水はそれを「泣きたいほどに羨ましい」と述べるに至ります。
その後、彼らを取り巻く高校アメフト界では国際大会が企画され、日本でも選抜チームが組織されます。
そこでも阿含は選ばれ、雲水は選ばれない。
雲水はそもそも選抜試験に参加さえしておらず、選ばれる土俵にすら昇っていない状態でした。
そして、会場で大会を観戦しながら、阿含をはじめとする才あるものたちや、自分と似た境遇を持つはずの凡才たちの戦いを見ながら、なぜ自分はこんなところで見ているだけなのかと涙を流して深く悔い入ります。
また、その過程で阿含から雲水への評価が明かされます。もしも雲水が自分自身のためにもがける凡才であったなら、どれだけ楽だっただろうかと。
自分の野心に蓋をして、希望も抱けず、全力を尽くし切ることもしなかった雲水の選択を、阿含は不服に思っているのでした。
原作最終話では、主要人物たちの高校卒業後の姿が示されます。
金剛兄弟は共に大学進学の道を選びましたが、入学先は異なる大学でした。
雲水の選択は、阿含とは別のチームに加入し、一選手として阿含を倒すことを決意したからだと語られています。
雲水は阿含への期待、阿含を通した勝利への執着と決別し、自分の足で立つことを知ったのでした。
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金剛雲水、とんでもない男だとしか言えないです。
阿含は作中でもその才と暴力性によって化物じみた扱いを受けていますが、その影で阿含を立てる雲水の姿も等しく化け物なのではないでしょうか?
化物を隠蓑に暗躍する化物の構図として読解を試みると、阿含より雲水の方が余程凶悪なのではないか?と思う次第です。
阿含が凡人たちを蔑ろにする描写が多々ある中で、凡人であるはずの雲水に対してはそれらとは一線を画していると思います。もし雲水がもがける凡人であったなら、阿含はきっと雲水のことも他の凡人と同じように扱うことができて、それはきっと阿含にとっても楽だったのではないでしょうか。
達観し、弁えたポーズをとり、己を殺し自分に尽くして見せる兄の姿が弟の胸中に与えた影響はどのようなものだったのでしょう。
作中で描かれた多くの天才たちは「自分に立ち向かう凡人」というライバルを手にしていましたが、阿含には与えられなかった。
蛭魔妖一は阿含が無視できなかった凡人ではありますが、蛭魔が阿含に立ち向かうことになるのはずいぶん後になってからのことです。
阿含は「わからない」と言います。「死んでもトップを獲りにもがくのが面白い」ことをわからないと。
雲水や、周囲の人間は阿含がトップでいることを当然のことだと考えている。そうでなければ報われないのだと押し付けられた頂点に君臨し続けた阿含にとってその地位はどんな意味を持っていたのでしょう。
雲水が自分自身を諦めの中に置いていたときに、阿含は雲水を諦めから引きずり上げる術を持ちませんでした。
雲水を上向かせたのは、彼と同じ立場の凡人たちでした。
阿含は自分の存在が雲水の心を傷つけてきたことに自覚的だったと思います。
本来阿含が見出されていたスポーツ留学の案内が、雲水に届いてしまったことで兄弟の関係性の歪みが決定的なものになります。
お互いに比べられることから逃れられない兄弟という関係。苗字が同じ、年齢が同じ、顔が同じ……。
雲水が自分を守るために身につけた歪な達観もまた、阿含の傍若無人な振る舞い同様、誰にも顧みられることなく受け入れられてしまった。
そこに至って、兄弟にとってはどちらの無関心も不幸なことだったのだろうなと思わざるを得ません。
関わってきた様々な人たちの行いによって、自制的に兄弟は変わっていきました。諦観に蓋され続けた意地や嫉妬、がんじがらめの執着から解放され、あるいはその存在を受け入れた2人の変化が、幸いなものであればいいなと思っています。