エリザベート大好き!
本当は宝塚大劇場に行きたかったものを、ことごとくチケットが手に入らず、なんとか手に入れたチケットで先日、東京宝塚劇場公演を拝見してまいりました。
宝塚の演目で何が好き?ってなると一番はどうしてもこのエリザベートになるんですよね…改めて要素を並べると完全に性癖になってしまっている。詳しくは後述します。
と言ってもエリザベートは宝塚のオリジナル脚本ではなく本家本元オーストリアの方で生まれたものを日本に輸入して小池修一郎がいい感じに宝塚ナイズするという方式になっているので、これを宝塚でーす!と大声あげてると怒られるのかもしれない。でも本家や東宝版を見たことがないんですよね…。今後機会があれば見てみたいなと思っています。
ただ、個人の趣味の話ですが、宝塚の演目で好きなものをあげるとスカーレット・ピンパーネルとか、アーネスト・イン・ラブとかどうしてもそういう原作ありの作品ばかりに偏ってしまうので、宝塚オタクを自称するときに少し気後れする部分があるんですよ…宝塚のが好きなので確実に宝塚オタクなんですが…。
あと作品とは全然関係がない話ですけど、今回初めて平日の夜の部の東京公演に行きまして(昼間の兵庫まで行ってることが多いので)、客層が全然違うことに驚きましたね。もちろんエリザベートという演目だったから?という部分もあると思いますけど、退勤後のスーツのおじさんが今まで見たことないくらいたくさんいて、普段は有閑マダムみたいな人に囲まれて見ているので新鮮でした。
宝塚版エリザベート、話の筋はわかってるし、歌も多分全部歌えるくらいには何度も見聞きしている(劇場に行くのはもちろん、CDやDVDも見ている)のですが、それでも再演決定するたびに大劇場で観たい!という一念でチケット戦争に乗り出してしまうのは、「ナマ」だからこその魅力を一段と感じる作品だからだと思います。
多人数コーラス曲もたくさんあるし、ソロ曲でもみんな声張って歌ってくれるので歌の圧がすごくて、CDで聞くのとは迫力が段違いなんですよ! 私は特にやんややんやした曲が好きなので! 舞台上の演者達から発せられるちからの集合を、直接浴びたい。
名指しすると「最後の証言」のコーラスがめちゃめちゃ好きなので永遠に聴いていたい。
そんな何種類も何回も見ているオタクが今回見てここいいな!ここ特徴的だな!と思った部分を上げていこうと思います。
概要はこんな感じ。
・シシィの生命力がすごい
・フランツの声が甘い
・皇太后があまり強くない
・ルキーニが閣下のこと大好きすぎる
・シシィの生命力がすごい
もともとシシィは元気一杯おてんば娘なので生命力抜群なのですが、1幕で皇帝と一目惚れしあって結婚したと思ったら皇太后にはいびられるし皇帝は頼りにならねえしこのクソの世の中〜〜〜〜〜死んでやる〜〜〜〜…いや誰が死ぬか!生きてやる!!!!私の意思で!!!!!!!! の気持ちが存分に詰まったソロ曲「私だけに」! シシィの自由への決意を象徴する力強い歌いっぷりに感服いたしました…。「強いな…」の第一印象は覆ることなく、フィナーレ目前のデュエットあたりでも底から輝いていた印象です。コーラス曲が好きなんですけど、こうやってガッツリ聴かせてくれるとお前のことも好きになっちゃうだろ〜〜〜!!!
・フランツの声が甘い
歌声がなんだかすげえ〜〜〜〜甘くて、すげえ〜〜〜〜〜優しくて、ホァーーーン…そっか……って感じ…(?)。こいつ苦労してないのか…自覚していないのか…という感じ…。どこが特にそういう印象を与えてくれたのかいまいち覚えてないのですが、とにかく「甘さ」が前面に出ていたように感じました。シシィもこの甘さに惹かれたのかな〜?
・皇太后があまり強くない
これは私の勝手な思い込み?印象?なんですが、皇太后ゾフィーって「強い」女(「宮廷でただ1人の男」とまで言われているため)のイメージが強く、国を生かし支えるための強さ・厳しさ・激しさを隠さず持ち続け、その頑迷さが疎ましくも頼りになるのは確かだと感じさせる女性だと思っていたものが、今回はあまりそういう方向の造形ではなく、多少の物足りなさを感じたのでした。噂によると、マザコン皇帝を溺愛する母親の側面に寄った演じ方をしているとの発言もあったようで、それならなるほどなと腑に落ちたわけです。もちろん以前のゾフィーの演じにも息子への偏愛はあったと思いますが、それでも皇太后として国を守る優先度の方が高そうな人だなと今まで感じてきたので、息子の方を優先しそうな今回のゾフィーには少し驚きました。
強くないゾフィーを最も感じたのは、「(娼婦のデリバリーを)取ったことあるのね? 大司教様」セリフでした。あんまり威圧感がなかったというか…。別に威圧感がないといけないシーンでは全くないんですけど…強い女には強くあるべき全てのシーンで強くあって欲しいので…。
・ルキーニが閣下のこと大好きすぎる
これねえ、これが本当に、今回一番グッときた部分なんですよ。
閣下がルキーニと同じ壇上に上がるシーン、ルキーニの目線が大抵閣下を追いかけているので…。あとあの慇懃無礼にもなりかねない大仰なお辞儀もなんだか心底敬服しているように見えましたし、何より閣下が登場すると、顔やお声が本当に嬉しそうに弾むんですよね。民衆を扇動する閣下の呼びかけに合いの手を挟むお声が本当に、本当に楽しげなんですよ〜〜!!
あとこれは役には関係ないんですが、役者の顔が良すぎません?
オタクの割にはあんまり役者に詳しくないのでこんなに顔のいい人間がまた…いるもんだなあ…としみじみ思い、気が付いた時には役者のブロマイドを3種類購入していたのでやっぱり私はオタクです。
ルキーニ役を演じている間はヒゲを生やしていて、群舞〜フィナーレではそのお髭は取られてしまうんですが、そのとった顔、顔がいい、顔が…。
ルキーニ役は顔を浅黒く塗っているので、余計にハンサム(死語)に見えてしまう向きもありつつ、それでも圧倒的に顔がいい…。
ルキーニの時の表情は悪役然としているというか、ニヒル方向に寄りつつ、精神錯乱のふりをしているな!と言われたりする程度にはブッツンしちゃってる系の人間の顔をしている(どんな顔?)ので、ルキーニじゃない顔を見た時に「本当にお前がルキーニだったのか〜!?!?!?!顔がいい〜〜〜〜」とひっくり返ってしまった。ブロマイド買ってじっくり眺めたらルキーニの時点で既に顔が良かった。
以上が大まかな感想です。
いや〜良かった〜〜〜〜めっちゃ良かった〜〜〜〜また見たい〜〜〜〜〜〜!!!!!!!!何度でも見たい〜〜〜〜〜〜!!!!!!
冒頭でも述べましたが、劇場におじさんたちが多かった中で、次期の演目「ファントム」のポスターを眺めていたおじさんが隣のおじさんに「これもチケット取りにくくてさ〜〜〜」と語っていたのが印象的でした。マダムもおじさんも私もチケットを頑張って取るんだよ。人類は平等なんだ(本当か?)。
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で〜性癖の話をしてもいいですか〜…。
母親の胎内にいた頃から宝塚楽曲の洗礼を浴びせ続けられてこの世に生を受けているので、宝塚歴がもう年齢飛び越えてるような生き方をしてきているんですけど、そういう生活をしているとですね、宝塚の世界観になんらの違和感を抱く余地がないんですよ。そうするとどうなるかっていうと、その、なんでもいいので男役の舞台写真を見て欲しいんですけど、見ました? 見ましたね? そうなんですよ…デコなんです………。
私はデコを出した男が大好きです…。
しかもトート閣下の髪型は大抵長髪&ゆるウェーブで、黒燕尾群舞の時にはそれを…後ろで1つにまとめて結わえてるんですよね……。
この尻尾、めっちゃ見覚えあるよな…な……。
さらにそこから視線を少し下にずらしていただくと、もう、すぐに見えるんですが、衣装の色がトンチキなんですよね……。どんな人生を歩んできたら紫色のスーツや、ピンクスパンコールで彩られたジャケットや、黄色いサッシュを身につける場面に立ち会うことになるんだ…こういう人生です。
ゲームジャンルだとキャラクター造形のポイントとしてイメージカラーというか、はっきりした色彩を与えられるのはよくあることだと思いますが(いまだにどうして鷹王の色彩が赤いバンダナ&布!緑の外套!黄色いインナー!なのかを理解できてない。髪・ベルトは黒だし、何色を中心に考えたらいいのかわからない。そもそもあの赤い布はなんなんだ?)、最近の雑魚ちゃんは現代日本を舞台に生きている推しにもショッキングピンクのシャツを着せたくて着せたくてたまらないんだもんな…病状が悪化してるんだと思います。
あとカップリング観も特にエリザベートに引きずられてるのかもしれない…と最近気づき始めました。というのも、それこそ最近のCP傾向が人外×美みたいなとこがあるじゃないですか。エリザベートの公式CPを見るとですね、1つが結婚までしたフランツ×エリザベートで、もう1つがトート閣下×エリザベートじゃないですか。トート閣下が何かっていうと、死の擬人化なわけですよ。死という概念そのもの! まさかの生物ですらないという…これって究極の…人外なのでは……?
エリザベートが死後、閣下の手を取り死の世界へと導かれていくシーンで、彼女は「連れていって 闇の彼方遠く 自由な魂 安らげる場所へ」と歌うんですよ(「愛のテーマ」より)。
自由を求め、多くのものを犠牲にし、苛烈に生きてきた彼女が最後に求めたものが安らぎで、それは死の先でしか見つけられなかった。逃げ場として死を意識しながらもそれを選ぶことができなかった彼女が、ルキーニによって不意にもたらされた死を受け入れたのは、「死」への愛が芽生えていたからなのではないかと思います。フランツ(あるいは多くの人々)は「人が死を愛するわけがない」と考えますが、何度も死と近く向き合ったエリザベートが必ずしも死を憎み、遠ざけようとしていたかと言えばそうではないのではないでしょうか。
何が言いたいのか、つまり、相容れないはずの存在が近くにあることで心惹かれずにはいられない側面を、自推しに…付与してしまう……性癖です………。
てか、この世でや安らげない男が好きすぎんだよ。
何も知らずに安穏と暮らしてゆくにはあまりにも罪深い男。
生まれる時代が違っていたら、出会った人間が違っていたら、もっと楽な──穏やかな生き方もあっただろうに、それができなかった男たち。
生き急ぐ男、大好き!
ところで「エリザベートはフランツを愛していたのか? トートを愛したのか?」の問いが立てられている中で、明確な答えは示されていません。多分。
宝塚版は宝塚の枠組みから考えてトート(トップ男役)×エリザベート(トップ娘役)で確定のはずですが、じゃあフランツを愛していなかったのか?と言えばそうではないと思います。人間という枠組み(どんな枠組みだ?)の中でエリザベートが愛したのは、確かにフランツだったと思います。だけどエリザベートは「自由」の概念になりかけていたのでは? あるいは自由の概念になることを望んでいた、ということは考えられませんか? 死後、自由の概念になったエリザベートは、死の概念トートと概念同士愛しあえるようになったのでは…と考えると、概念と人間はうまくカップリング出来ない説が浮上してくるわけですね。
もしもフランツが何らかの概念を獲得していたなら、黄泉の国でもエリザベートの愛を巡って閣下とバトることも可能だったのではないでしょうか。ただ残念なことに、劇中でフランツは概念に昇華できる何も付与されなかったと思います。
それで、死後「自由」になったエリザベートは「死」と寄り添うことになったのだと思いました。
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以上、感想だったり性癖だったり解釈だったり話があっちこっちに行ってしまいましたが、まとめて2018エリザベート観劇の振り返りとさせてもらいます。
特にプロットもなく書いているので話がぐちゃぐちゃで申し訳ないです。