明日のこと

 足が止まる。
 ティバーンは先ほどよりも幾分か声量を落として、もう一度呼ぶ。
「ネサラ」
 よくよく見れば重たげな外套の色は珍妙だ。ティバーンが勢いづけて雪面を蹴るのとその人影が顔を上げて立ちすくむのはほぼ同時であった。
 鼻先も頬も真っ赤だ、血色の悪い鴉には珍しい。何も言えずにこちらを見ている体をティバーンは飛びつくようにかき抱いた。
「……ティバーン」
 吐息にまぎれたささやきは過つことなくティバーンの耳に届く。好意も敵意も自尊もない声音にたまらなくなる。ティバーンにはもうかけるべき言葉がない。
「帰ろうネサラ。もう全部いいんだ。帰ろう、帰ってこい」
 掌で覆った肩は薄い。ネサラの手は拒む様子も受け入れる様子もなく、腿の横にぶら下がっているだけだ。
 ティバーンの腕の中に埋もれたネサラはあくまでも小さな声で
「ここがどこだかわかるか」
 と訊いた。
「迷子だったのか?」
「そうじゃない」
 ネサラは落ち着き払っている。ここで意を得なければ、永久に失いそうな気がした。答えを探して言いよどんで、結局ティバーンは口を開く。
「おまえが裏切った場所だ」
 そうだとも違うともネサラは言わない。
「俺は許されない。あんたは俺を許しちゃいけない。今回のことも含めて全部」
 ティバーンは一度身を離し、ネサラの両二の腕を掴んで顔を突き合わせる。罰を望むこの鴉は翼を失うだけでは足りないと言い続けている。
「ちがうんだ。おまえがそんなんじゃ、どの鴉も鷹とは並び立てない。俺たちは、俺は、鷹も鴉も鷺も誰も責めたくないんだ。自ら責められようとしないでくれ。……おまえを信じる鴉のためにも」
 それまで何の表情の変化も見せなかったネサラだったが、最後の一言を聞いて顔を歪めた。声が震える。
「そりゃ、…ずるいぜ。それを持ち出すのは」
「そうだ。ずるいんだ、俺は。キルヴァスの鴉たちのことを黙ってたのは、あれがおまえを生かしておくための切り札だったからだ。キルヴァスに行ったってんだから、そのくらいわかるだろ」
 ネサラは頭を縦に動かす。
「だけどどうしてこの時期に行った?」
「あんたたちがみんな何かを隠してることくらいすぐにわかった」
 鷹は嘘をつくのがへたくそだ、と言う鴉。嘘も隠し事も、上手になる必要なんてないと鷹は思っている。ティバーンもそのうちの一人だが、今だけほんの少し後悔する。
「何を隠したかったんでもよかったんだ。知らないふりだって俺たちは得意だ。でも」
 そこで言葉を切る。声音に変化はない。再び抱き込んで優しく背中を撫でると、気丈に前を向いていたネサラの額がティバーンの肩に預けられる。
「鴉たちに何かあったのなら、知らずにはいられない」
 キルヴァスで異変があったと聞いたときのティバーンと同じ懸念をネサラもしたのだろう。
「知らないまま鴉を含める鳥翼の命運を変えかねない同盟を俺の手で結ぶのは堪え難かった」
「だが鴉の誰もおまえの決定には従うだろう」
「……どうしてだ? 俺はもう王じゃないのに。翼すら持たない、化身も出来ない、鴉ではない何かに成り下がった俺に、どうして」
 震えながらも言葉を絞り出すのは、自らの言葉でその心を刺し傷つけるのは、そうせずにいられないのはなぜなのか。だけどこの生き様を嫌いにはなれない。
「あれでは鴉全員が罪人だ…」
 ネサラの心痛の深さはティバーンにもわかる。
「だが同盟はもう結んじまったぞ。破棄したいか?」
「まさか。あれは、……俺の手の中にない」
 抱きすくめているネサラの体から力が抜けたのが知れた。
「どういうことだ?」
「お膳立てはまあ適度にしてやったが、ほとんどの談合は部下たちの裁量で進めてもらった。俺はあの同盟にはほとんど関わってないんだ」
「おまえが報告に来なくなったのは、そのせいか。皇帝はおまえをベタ褒めだったが…」
「一応あいつらは俺の部下だってことだからな」
 ネサラの声は誇らしげだ。部下は鷹にも鴉にもいちからネサラが教え込んだのだから、その達成感はどれほどのものだろう。ティバーンは穏やかな心境でそれを聞きながら、胸の中にわだかまっていた得体の知れない思いが形になるのを感じていた。
「もう、無理だな」
 息を吐くように出てきた自然な言葉。
 冬の空気にふさわしい、透き通った気分だった。
「前みたいには戻れそうにない」
「やっとわかったのか」
 呆れたようにネサラは言う。ティバーンは思わず苦笑して、頷いた。結局、ティバーンと距離を置こうとしたネサラの魂胆は真っ当だったのだ。そうとわかるまでに随分かかった。
「ああ。いままで面倒をかけたな。おまえは最初からわかっていた?」
「だって俺たちはお互いに失ったものが多すぎる」
「得たものもたくさんあるしな」
 最初に互いが持っていたもの、なくしたもの、新しく手に入れたもの。特にネサラが育てた部下の働きは鳥翼の大きな財産だ。元通りするというのは、それらも全部なかったことにするということだ。もちろんネサラの罪も、ティバーンの罪も。
「おまえにもう翼を返そう。おまえはおまえの責を果たした」
 死を求めるネサラを生かしておいた理由の一つである鳥翼の発展への貢献は目に見える形で遂げられている。これからも彼を手放す気はないし、可能な限りこき使って行くつもりだが、より万全な状態で職務にあたってもらいたい。
 肩口でネサラが笑う。
「これで俺は死ねるかな」
「……おまえな」
「冗談だ。鴉の移住が進めばいいが」
 誰もが頭を抱えていた問題の解決が見える。大丈夫だ、とティバーンは思う。
 ネサラの背中、翼の根元であろう部分をさする。
「今は痛みはないのか?」
「問題ない」
「おまえは平気で嘘をつくから信用ならない」
「確認するか? 呪符の色でわかるみたいだし」
「セリノスに帰ってからな」
 ティバーンは体を離してネサラの顔を覗き込んだ。うっすらと黒ずむ薄い涙袋をなぞって、ついでに唇を押し付けた。
「あんたな……」
「疲れてるんだろ。早く帰って、休もう。やらなきゃいけないことはたくさんあるが、ゆっくりしてからだ」
「そうだな。とりあえずあんたの前で正式に謝罪するところから」
 さらりと言ってのける鴉にたまらず絶句した。謝るくらいなら最初から俺に相談すればよかったのに、と思わなくもないが、言葉にはせずに呑み込む。ティバーンが伏せていたのが原因なのだから、仕方のないことだったというのだろう。一方のネサラは渋面をつくるティバーンをおかしそうに眺める。
「必要なことだろう…おっと」
 さっさと連れ帰ってしまおうとティバーンが抱き上げると、ネサラはその首に腕を回した。
「おい、もっとちゃんと掴まれ」
「人に運ばれるのは久しぶりだ」
「俺に抱きつけばそれでいいんだ」
「できれば遠慮したいねぇ」
 と言いながら、少しだけ身を寄せる。その少しに嬉しくなって、安直だと自覚しながらティバーンはセリノスへの帰路を飛び始めた。
 飛翔すれば、徒歩とは大きく速度が違う。ネサラを抱えていても大した負荷にはならないのでもっと速く飛ぶことも出来るが、わざとゆったりした気流を選んだ。  ネサラと寄り添えたことが、心の底から嬉しい。ティバーンは喜色を滲ませた声で語りかける。
「なあ、前みたいには戻れないが、またおまえと新しく仲良くすることは出来ると思う」
 ネサラは首を傾げて続きを促す。
「訓練場で戦ったあのときは、楽しかった。また、今度は翼のあるおまえと戦いたい。そういう新しい関係をつくっていきたい」
 なるほど、と相槌が返ってくる。悪い気はしていないのだろう。しかし続く発言は突拍子もないもので、ティバーンをひどく驚かせた。
「それなら、俺はガリアへ行こうと思う」
「…は?」
「新設する大使館の運営に関わるつもりで、準備もしてあるんだが、それよりなにより、武闘会の話がかたまりつつある」
 武闘会という単語に血が踊るのを感じる。戦争を起こすつもりはないが、戦いを、肉体と技とのぶつけ合いを想起すると、いてもたってもいられなくなる。
「ガリアの獣牙たちと戦えるのは楽しみだが、おまえがセリノスから出てくってのは……」
「やっぱりまだダメかね」
 ネサラの声が小さくなって、意味を取り違えられていることに気がついた。まだ信頼がなく、傍で監視する必要がある旨の発言と受け取ったのだろうが、もちろんそういうつもりは全くない。
「……俺が個人的に嫌なだけだ。おまえの仕事には期待してる。ああ、リアーネはどうするんだ」
 ネサラを慕う鷺の姫。セリノスを抜け出てキルヴァスを訪れるために、彼女にも再び心を閉ざして秘密を作ったことを考えると、この鴉の業深さに舌を巻く。何と申し開きをするつもりなのだろう。確実に兄も出てきて、大騒ぎになるだろうと予想が立つ。
「連れて行けると思うか?」
 唸るような声。ティバーンはにんまりとした笑みを浮かべる。
「会いに帰ってくるほかないな」
 セリノスに戻ってこずにはいられない。帰ってきたら、ティバーンにも会わずにはいられないだろう。そして、もう一つ、答えの用意された問いを投げかける。
「俺もおまえに会いに行っていいか?」
「武闘会に出る気満々なんだろ。どこでやるにしろ、開催されれば会えるだろうな」
 溜め息をつきはしたが、ネサラの言葉も期待と希望に満ちている。
 彼がもう自分を拒絶することはないのだと、肩に乗せられた左腕を通してティバーンは知っていた。

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