「ネサラはどうした」
「別件で国外に出ておりますが」
「聞いてねえぞ」
いくらティバーンといえども、ネサラの予定のすべてを把握しているわけではなかったが、国外出張の日取りに関しては自分の元に知らされるはずだと信じていた。それには声をかけたネサラの部下も同意見だったようで、おかしいですね、などと困惑の表情を浮かべている。どうやらこの男はネサラの今日の仕事に詳しくないようだ。
ベグニオンで催される調印式のために発とうとしている最中での発覚であった。いまから外交関係者に総当たりでネサラについて聞いて回る時間はない。そもそも、今日の担当官吏にネサラの名前がなかったことが発端なのだが、そうである以上ネサラ抜きでの日程が組み上げられているということなのだろう、調印式に関して彼がいないことになんの支障もないのだ。ただティバーンの納得がいかないだけで。
昨晩、ベグニオンに行くと言っていたのは嘘だったのだろうか。それとも、別にベグニオンに用事があるのか。
ティバーンとしてはこの違和感を放ってはおけないのだが、固執している暇がない。小さく悪態をついて、出立の輪に戻っていく。
人員が揃い段取りの確認も終えた頃にリュシオンとリアーネが現れ、願掛けの意も込めた呪歌を聴かせてくれた。
「リアーネ、ネサラがどこに行ったか知らないか?」
彼女ならば知っているだろうというある種の確信のもと尋ねるが、リアーネは小首をかしげて答える。
「ネサラいないの?」
ティバーンの背を冷たいものが伝い落ちる。
「知らないなら、いい」
ことを大きくするつもりはなかった。とにかく今ティバーンがすべきことは平穏無事にベグニオンとの同盟を成立させることのはずだ。ネサラはネサラで他の案件に関して話をつけに行っている可能性がないわけではない。外交が抱える仕事は膨大だ。それにもともとネサラは秘密主義的な面がある——言葉を並べて積み重なる不安を押し込めようとする。
難しい顔のままのティバーンを伴った外交団は、結局所定の時刻に出発した。雪が疎らに降っており、いくらか肌寒さを感じる。
ベグニオンに到着し、ティバーンが一言も口を開かなくても、始めから決まっていた通りに物事は進んでいった。やがて調印式が始まる。
同盟内容の読み上げと、署名。ネサラが書いてくれた見本を思い出しながら、自分なりの筆跡で力強く鷹揚に筆を動かす。
サナキの整った署名に舌を巻き、調印式の終了を示す握手のときにこっそりそう告げると、彼女は先生がよかったのだと眉尻を落として笑んだ。
「今回の同盟成立は、心から喜ばしいものであると同時に、このテリウス大陸の新たな時代の幕開けにふさわしい第一歩であることを確信しておる」
皇帝サナキは、晩の会食の場でそう切り出した。
「我々は、鳥翼の全ての民に対して多大なる責がある。セリノスの森を襲い、キルヴァスの民を縛り、フェニキスの国を焼いた。その補償は既に示したとおりじゃが、これらのことを乗り越え、隣国としてともに手をとり歩んでいくという考えを受け入れてくれたそなたたちに、礼を言わずにはおれぬ」
「……当然のことだ。俺たちは進んでいかなけりゃならない。お互いにいがみ合うよりも支え合う方がよっぽどいい」
ティバーンは応えながら感嘆する。まだ少女の面差しは残るが、ティバーンを見据える瞳に迷いはない。
「この場にはおれぬと言っておったが、そなたの国の随一の外交官殿にも、この感謝を伝えてほしい」
「ああ」
我知らず机の影で拳を握り込む。自分が何に対して心を乱しているのか、考えることさえも不安を増長させた。自分に出立を告げなかったこと、誰もネサラの行き先を知らないこと。このままネサラが姿をくらませてしまうことが恐ろしいのだ。
責務があればつなぎ止めておけると思った。翼を失えば逃げ出せないと思った。考えが甘かったのだろうか。ずっと側にいてほしかった。ティバーンには見えないものを見通している彼の眼で、ともに鳥翼の国を見つめていてほしかった。
用意された寝室ではまんじりともできず、心身とも疲弊した状況で朝を迎える。己の強健さには自信があったが、部下にもベグニオン側にも不調を悟られることは避けたいので、改めて気を引き締める。 挨拶もそこそこに済ませ、ネサラのこともあるので荷をまとめて早速帰国しようと廊下を急ぐティバーンを引き止める声があった。聞き覚えはない一方で嫌な予感を覚えて振り向くと、安定感のある体型が目に入る。
「……おまえは…えぇと」
「ほほ、美の守護者たるこのオリヴァーの名をお忘れとは、あの麗しき鷺の庇護者とは思えぬ所行ですな」
「何を言っている……?」
顔にも心当りはないが、目に痛い配色の服装は記憶にある。ネサラがリュシオンを売った相手、名前はよく話題にあがるものの、実際にこのオリヴァーと会って言葉を交わす機会はないに等しかった。彼の治めるタナス領はセリノスの森と隣接しているので関わりがないわけではなかったが、主に外交官がその役目を負っているので、ますますティバーン本人とは縁遠い。しかし、この場にいるということは調印式や会食の場にも実は出席していたのかもしれない。オリヴァーがその美への執念を存分に発揮するために中央でも文化芸術の保護支援を司る官職についたらしいとはネサラが言っていた。
「俺は急いでいるんだが。用があるなら手早く頼む」
過去のことはどうあれベグニオンの役人を手荒く扱うのは流石に気が引けたため、一旦止まって話を促す。オリヴァーはゆったりとした袖口を探って、なにかを取り出す仕草を見せた。ティバーンに見せつけるように軽く振られたそれにはまさしく覚えがあり、思わずオリヴァーの手首を掴んで寄せる。
「と、突然何事じゃ! 無礼な輩じゃの!」
「てめえ、これをどこで……っ」
黒石の光る腕輪は、セリノスに運び込まれて国庫に収められた宝玉の中からニアルチが取り上げて、鴉の王の腕輪だと教えてくれた。この男がこの腕輪を持っているということが、あの日以降にネサラと接触した証だと考えると、ティバーンはオリヴァーへの敬意ある対応を諦めざるを得なかった。
返答によってはただではおかないとばかりに握りしめる力を強め、頭一つどころか二つほども低いところにあるたるんだ顔を睨みつける。
「とある者からの預かり品じゃ。詳しく聞きたくば…」
「ネサラをどうした」
「彼の者について話してやってもよいが、じょ、条件があるぞ」
「がたがた言ってねえで、あいつがいまどこにいるのかさっさと教えろ!」
食い下がるオリヴァーを遮るように怒鳴りつけ、拳を振りかざして顎にぴたりとくっつけてやると、オリヴァーは血相を変えて頭を左右に振り乱した。
「いま、どこにいるのかは知らぬ!」
「じゃあ何を知ってるってんだ」
「ダ、ダルレカの荷運び人が連れて行ったのだ! 私は知らぬ!」
ここで出てくるか、とティバーンは舌打ちをする。投げつけるように手を離し、オリヴァーがバランスを崩して腕輪を握りしめたまま床の上でもんどりうつのも構わずに場を後にした。
「こ、これ! 待たぬか! 私の話はまだ終わっておらぬぞ、これ……!」
オリヴァーのひっくり返った声が背を追うが届くことはない。
外の闇の中に何一つ物質の影も見出せない自らの目を憎みながら、ネサラは馬車に揺られていた。
「感謝いたします——タナス公爵閣下」
窓から馬車内へと首を巡らせたネサラの視線の先には、相変わらずの豊かな体躯を振動にあわせて震わせるオリヴァーの姿があった。燭台が設けてあるためほの明るい車内では、かろうじて相手の表情を読み取ることが出来る。セリノスの森からネサラが抜け出す手伝いをしたタナス公オリヴァーは、ネサラとはリュシオンを通じて浅からぬ縁があるのだった。そして今回の取り引きもリュシオンが介在する。
「ほほほ、あの美に今ひとたびまみえることができるのなら、美の使徒としてそれを逃す手などないというもの」
「ところでタナス公、彼はもうあなたの屋敷に?」
「とうに待機させておるわ。なんでも予定が早まったとかで、昼過ぎには到着しておった」
「それは何よりです」
「で、わしはいつセリノスに迎え入れられるのだ? 明日か? 明後日か?」
急く気を抑え難いとばかりにネサラに詰め寄るオリヴァーを、なんとか手で制すると、ネサラは胡乱な笑みを浮かべたまま応える。
「慌ててもよいことはありませんよ。あなたも明日の調印式に出席なさるのでしょう」
「そうであったな」
「そこで、我が王にお会いになり、交渉を」
「仕方ないのう…しかし手順を踏むことは必要じゃ……麗しき鷺に礼を失することは、美しい私の流儀に反する……」
しばらくもごもごと口の中で呟いたと思うと、オリヴァーは顔を上げて、新しく援助することになったという画家の話を始めた。その画家に、リュシオンの肖像画を描かせることを彼は強く望んでいる。ネサラが提案したのは、オリヴァーがリュシオンの保護者たるティバーンと話をする機会を得るまでの手引きであった。実際にティバーンおよびリュシオンと交渉するのはオリヴァーの責任でやってもらうとあらかじめ言ってある。だからリュシオンを売ったことにはならない。ネサラは誰にともなくそう言い訳した。
どれほど走ったのだろうか。ようやく馬車は減速を始め、やがて巨大な邸宅の前で停車した。主によって案内された部屋で、ネサラは今回の計画の鍵となる男と対面した。
「今回は世話になるな、ハール殿。随分と早く着いたと聞いたが」
「他の仕事がなくなったんだ」
「それは残念だったな」
「おかげで今の今まで眠らせてもらったからそれはそれでかまわない」
眠たげな隻眼を擦って、その男は小さな油紙の包みをネサラに差し出した。
「確認してくれ」
「ああ」
ネサラは包みを丁寧に開いて中身を見る。間違いなく本物であるという確証を得てから、彼はオリヴァーに向き直ってその包みを手渡した。
「それを我が王に渡せば、ある程度の談話は可能でしょう」
「まことか!」
油紙をはぎ取ったオリヴァーの手の中に輝くのは、キルヴァスで代々の王に受け継がれてきた腕輪であった。銀の土台に填められている磨き上げられた黒い玉がひときわ美しい。
「……これは」
有頂天になるのみだと思っていたオリヴァーが、腕輪のきらめきを真摯な目つきで調べ始める。
「どうかなさいましたか」
「これは……これは」
オリヴァーは垂れ下がった瞼を最大限まで広げて、黒石とネサラを何往復分も見比べた。
「まさしくそなたは私の審美眼を試しておるのか! なるほどキルヴァスに…!」
「タナス公?」
オリヴァーは柔らかなソファに深く身を静めると、ネサラにも座るように促す。ハールの隣に腰掛けて、オリヴァーが腕輪をいとおしそうに撫でるのを見守った。
「そなたもよく見知っているであろう、ルカンという男がおった」
「ええ、それはもうよく」
知っています、と歯の奥の苦虫をかみつぶす心地で答えると、オリヴァーは溜め息をついて話を続けた。
「彼の男の祖父は、私と大変趣味があってな。美しい黒い宝玉の指輪を身に着けておった。私はそれがうらやましくて…ある日、私は問うた。“美しい玉石は、どこのものが一番ですか?”とな。ガドゥス公爵は『キル……北山産だ、無論ベグニオンの』と答えた。しかし私はごまかされなんだ。ベグニオンの北山産の鉱玉など、ひよっこだった私にだって手に入れることが出来たのだ」
オリヴァーは、前ガドゥス公爵が言い止した地名の切れ端をずっと追い求めてきたという。
「公爵の死後、指輪はルカンに受け継がれたが、あの男は玉の出所を知らなかった」
うっとりと腕輪を眺めるオリヴァーは、美の追求に余念がない。突然立ち上がったかと思うと、
「こうしてはおれん! この腕輪の美しさを記録しなければ! ではネサラ殿、私はこれで失礼する、あとのことは家の者に言いつけてくれればたいていはなんとかなる」
と言いおいて、重たげな体を懸命に動かして部屋の外へ出て行ってしまった。
「おやおや」
呟いて隣の男を見れば、ほとんど眠ってしまっている。
「これは、仕事の話をするには持ってこいの場だ」
「……あんたを運べばいいのだろう」
「察しがいいな」
「あんたがジルに託した前払金の額を考えればすぐにわかることだ」
相変わらず寝ぼけたような顔つきなので、ネサラは苦笑を漏らしてしまう。
「どこまで運べばいいんだ?」
「……キルヴァスまで」
ネサラは声を一段低くする。憚る相手はいなかったが、自分自身が許し難かった。
「もう二度とキルヴァスの地面を踏むことはないと決意したが、どうしても確かめなければならないことがあるんだ」
「承知した。出発は今すぐか?」
ハールの反応は淡白だ。単発の仕事をする上ではこういう男は実に便利でよい。
「いや、明日起きてからでいい。夜に動かれても、俺には何も見ることが出来ない」
「ああ、鳥翼族はそうだったな」
こだわりなくそう返すと、ハールはひときわ大きなあくびをして、休息を申し出た。ネサラは給仕に部屋の用意をお願いする。給仕に案内された室内は家主の趣味を反映しているのか、目を楽しませるものに溢れかえっていて、ゆっくりとくつろぐには難儀する空間であった。
次に二人が動き出したのはようやく朝もやが晴れ、朝特有の寒さも和らいできた時間帯であった。見送りに現れた給仕に渡された上着を羽織って騎竜にまたがる。ハールがその背後を覆うように手綱をとった。操る騎竜の羽ばたきは硬質で力強い。タナス領は大陸の端にあり、海岸線を擁しているためキルヴァスとの物理的距離は近い。セリノスとは隣接する地域であるためある程度の警戒はしていたが、ハールの騎竜ならば一介の兵士を振り払うなどわけもないはずだ。飛行時間はそう長くはなかったものの、素肌には上空の寒さはあまりに厳しくて、ネサラは片手で竜の首元の輪を掴みながらもう片方で外套の襟元をかき寄せた。
太陽が中点に到達するであろう頃合いに、騎竜はキルヴァス本島の上空を旋回していた。見晴らしの良い崖の上に竜を降ろすよう頼むと、ハールは慣れた手つきでそのようにした。ネサラは崖の端にしゃがみ込み、国土を見下ろす形で鴉の姿を探し始めた。
「そう…いうことか」
ネサラは立ち上がりかけて、前のめりにバランスを崩した。ハールの手がネサラの体を引き戻す。
「あまり危ない真似をしないでくれ、あんたの王に殺されたくない」
「すまない」
ネサラの目はハールを見ない。
崖の連なる視界の先は、鴉の集落の一つだった。そびえる石の壁を掘ったところに鴉は住まう。人影が疎らに壁の穴を行き来している。
ネサラはハールに身を隠せる林を教え、そこで待っているよう言って国土の観察に向かったが、ハールは無言でこれについて回った。
「飛んでいる鴉を一人も見かけないだろう」
黙っていられなくなり、ネサラはハールに言葉を投げる。
「ああ、確かに」
「あそこを歩いてる鴉の、背中が見えるか?」
昼のベオクの視力は鳥翼のそれに劣ると聞いているので尋ねると、案の定「見えない」という答えが返ってきた。
「枷が填められている」
「枷?」
「翼の自由を奪うんだ。あれをつけていると、飛べない」
「俺たちも竜の調教に使うことがある」
「そうか。ここじゃあれは、罪人の刑罰用なんだがなあ……」
移住が困難に陥っている原因は、これだ。姿を現す鴉は少ないが、どの背にも枷が見える。翼の使えない民を力づくで運ぶことはもちろん出来るだろう。しかしティバーンはそれを渋った。鴉の選択を無下にはしなかった。
飛べないネサラが翼を取り戻して、いつかこの地に帰ってくるまで。
渇いた岩肌に変わりはない。濁った雲に晴れ間もない。
訪れる冬は生活を苦しめるだけだろうが、いままでと同じことだ。
「報酬の残りも現金でいいか?」
仕事の終わりを言外に含めて訊くと、ハールの答えは意外なものだった。
「いや。装身具がいい」
「へえ? じゃあ、あっちの城に向かってくれるか」
二人は騎竜を置いてきた場所まで戻り、彼に乗ってキルヴァスの王城へと向かう。ネサラの指示通り中庭に竜を降ろして城へと入る。白灰色の壁が、窓の玻璃を通して差し込む夕日の色を映し込んで橙色に変わっている。もうこんな時間だ。
「ここには翼がなければ入ってこられない」
城内は閑散として人気がなく、しかし手入れが行われていないわけでもないようだ。ネサラが先導してたどり着いた部屋には何もなかった。ネサラはかがみ込んで床の穴に指を差し込んだ。持ち上げると、蓋のような扉が開く。ネサラはするするとその先に降りていって、ハールを呼んだ。
「大丈夫そうか?」
戸口は小さい。成人男性が体をよじってようやく入れる程度の大きさだ。翼をしまう術を持った者しかこの空間に入る資格はない。
しばらく経って降りてきたハールは肩と胸の防具を外していた。
「不便をかけるね」
部屋の奥は一段天井が低くなっていて、少し屈まなくては進めないようになっている。壁のところどころに発光する石が埋め込まれていて、たいまつがなくても歩いていける。
「普通の奴には絶対に入って来れない、絶好の隠し場所だ」
「俺に見せてもよかったのか?」
腰回りの防具を壁に当てる鈍い音を立てながら、後ろのハールは確かめる。
「どうせ大したもんは残っちゃいない。ほとんどセリノスに運び込んじまった——ここだ」
たどり着いた小部屋は天井が高く、ようやく二人は背中を伸ばす。天井も壁も床も輝く石材で作られていた。ネサラは床に置かれた宝箱を開けて、いくつか装身具を取り出してハールに見せた。
「指輪? 腕輪? 首飾り? しょぼく見えるかもしれんが、これでもちゃんとしたとこに売れば高値がつくから安心してくれ」
「売るつもりはない……これはきれいだな」
ネサラに並んで箱の中身を覗き込んだハールが示したのは耳飾りであった。緑石には白いもやがまろやかに閉じ込められており、縁取りの金には細かな意匠が彫り込まれている。
「お目が高いねえ、これは、俺の母親のお気に入りだったものだ。きれいなのは確かだが、曰く付きってことだな」
「かまわない。代々の王がこうして守り通したものだ。加護を受けられそうだとも思う」
「そういう考え方もあるな」
懐から取り出した油紙に二つで一揃いの耳飾りを包み渡す。
「キルヴァスが玉石の産地だとは知らなかった」
「出し惜しみしたからな。鉱脈もいずれは枯れる。それにもともとあの鉱山は俺たちの成人の儀に必要なものなんだ。商売っけを出すのには憚られる」
ネサラはその後しばらく室内の点検をして、取り出した全ての装身具を箱に収めて立ち上がった。
はしごを上って元の部屋に戻ると、橙に染められていた壁の色はすっかり別のものに変わってしまっていた。夜の色を強くにじませている。
「日が沈んじまったみたいだな。あんたをこのまま送り届けてもいいものか」
「戻る分には夜の方が都合がいい。タナス公爵邸にまで頼む」
「わかった」
中庭で大人しく待っていた騎竜は、ハールに強く頬をこすりつけた。
「随分よくなついてるみたいだな」
「なぜか仕事が終わるのがわかるらしくてな…終わり際にはいつもこうだ」
「頭のいい竜じゃないか」
ほの暗い中ではもうネサラの視界は怪しくなっている。黒い騎竜の境目がわからず、ハールに手を取られて騎竜の背に乗った。南方の小島であるキルヴァスでも、日が落ちると寒さが刺さる。ハールは手綱を取って竜の首を巡らせた。