明日のこと

 裁判で何が行われたのかを民は知らない。ただわかることは、王の背からは翼が消え、その命は保たれるという決定のみであった。鴉たちは自らの罪への言及を待ったが、告示はそれで終わった。キルヴァスの国土は困惑と安堵で満たされている。
 裁判から三日後のことであった。

「城に寄るか?」
 崖の下の鴉たちを見つめたまま微動だにしないネサラに、ティバーンは声をかける。数は少ないもののフェニキスの兵が回りを囲っているのもあってか、一人の鴉も飛び上がって詰問に来たりはしない。ネサラは首を横に振るだけだ。
「では、このままセリノスに帰るか?」
 瞬き数回分の間をおいて、彼は頷いた。ティバーンは少しかがんで、ネサラの太腿から抱き上げる。翼を捻って風に乗り浮上すると、鷹たちも王に続いて翼を動かす。針路を北にとり、一行はキルヴァスを離れた。
 ネサラを裁く法はどこにもなかった。無論ラグズは明文化された法を持たない。大陸一整っているはずであったベグニオンの法律にも、ネサラの断罪は不可能であった。翼を失うことを選んだのはネサラ自身だ。失うというよりは、その身の内に隠しているといった方が正しい。ネサラが翼を自由に消したり現したりすることができるなど、ティバーンは知らなかった。ネサラによれば、素養自体で向き不向きのある技であり、実際キルヴァス兵にも何人か出来る者ができるという。翼を切り落としてしまうことは鳥翼にとって最も重たい罰であったが、誰もがネサラの肉体を損なう罰は不当であると判断していたため、ネサラのその能力は格好の材料となったのであった。
 ティバーンの肩につかまったまま、ネサラは黙って運ばれている。ティバーンより高い位置にあるネサラの目がどこを見ているのかはわからない。ネサラの腕はティバーンの肩に回されているが、形式でしかない。もし何かあってティバーンから離れたときには、きっとそのまま海に沈んでいこうとするだろう。落とすわけにはいかないから、ティバーンが自分で負っている。
 風が凪いでいる。
 眼下に広がる海も静かだ。
 ベグニオンの岸が姿を現しセリノスの美しい緑が視界に入るようになっても、ネサラは溜め息の一つもつかなかったし、ティバーンもネサラに話しかけることはなかった。
 セリノスの祭壇では、リュシオンが眉根を寄せた表情で彼らを出迎えた。ティバーンの腕からおろされたネサラにまっすぐ駆け寄る。
「ネサラ、ひどい顔色だ。なにがあった?」
 リュシオンが頬に触れるのに任せて、ネサラは視線を通わせるだけだ。
「どうして……」
 二人がしばらく無言で見つめあっているので、ティバーンは邪魔しないように鷹の兵たちを下がらせる。ネサラのこういうところがとても捉え難い。ティバーンに対していつも頑で、戦争直前は特に接触を避けていたのに、鷺にはとても甘い。鷺がその場にいなくとも、彼らを守るためにネサラは現れた。血の誓約を背負っている身には心の内を読み解く鷺らの方がよっぽど避けたい相手だろうと思うのに、ネサラは決して鷺を遠ざけない。ネサラの内側を何一つ知らない、知り得ないティバーンと顔を合わせることを拒む理由がわからなかった。
 付き合いの長さは変わらないはずなんだがなあ、とぼやく。
 セリノスの森で、はじめて出会ったときからどのくらい経ったのか、数える気にはならない。確か今と同じように、緑色に深みが増し、日差しにも勢いがついてきた時期だったはずだ。
「ティバーン」
 リュシオンに呼ばれて振り向くと、ネサラの腕をしっかりとつかんだ彼はティバーンを手招いた。
「お待たせしてしまいましたね。中に入ってください」
 彼の導きで祭壇の側、鷺の居城に足を踏み入れる。付属する尖塔の前を横切る際にネサラの顔色をうかがったが、みじんの変化も見られなかった。鋼鉄なのは、顔だけなのか心からなのか。その塔は裁判までの数旬を幽閉されて過ごした場であった。



 それは遥か昔に作られた牢であった。尖塔は一見空へ高く伸びているが、本来の用途は地下深くにある。ティバーンとリュシオンはたいまつの光をたよりに、ひどく狭い階段を一段一段踏みしめて降りていた。どれほど歩いたかわからないほどの段数を経て、二人は少しひらけた空間にたどり着いた。狭めていた翼を広げる。一枚の扉が行く手を塞いでいる。明かりを寄せて見聞すると、腰の高さに仕掛けのついた錠があった。
 壁に取り付けられた金具に、ティバーンはたいまつを注意深く差し込む。空になった両手で懐から紙切れを数枚出して、錠と見比べた。
 歯車や差し込まれた木の棒を手順通りに動かさなければ鍵は外れない。慣れない作業に苦心しながら、時間をかけてティバーンは鍵を解除した。持参したたいまつを半分ほど使ってしまった頃にようやく扉の奥でかちりと何かがはまる音がして、小さな軋みを上げながらゆっくりと開き始めた。
「今日は随分と時間がかかったな」
 しばらく耳に遠かった、かすれた声が聞こえる。いつも鍵を開けるのはベグニオンから借り受けている技師だった。手先の器用な技師は、最近では見本がなくても解除できるようになったらしい。
「って、あんたか。王に罪人の食事を運ばせるとはどいつもこいつもいい根性じゃないか」
 変わりない笑みと軽口がティバーンに向けられる。背後から姿を現したリュシオンが持っていた食事の盆を卓に乗せると、さしものネサラも少し驚いた顔をした。
「どうしておまえが」
「付き添いだ」
「ふぅん?」
 部屋は決して明るくはなかったが、四隅に光源があったのでたいまつを消す。その光源に油を注ぎ足しながら、ティバーンは室内を見回した。木の机と椅子と寝台と棚が一つずつ。深く土の床を穿った穴が部屋の隅にある。
 かつてセリノスへの侵入者が捕えられた牢だ。天井も低く窓もないため圧迫感を覚える。セリノスから鷹や鴉が姿を消し、侵入者を捕える術がなくなって以来使われていなかった室内は、空気が重く淀んでいる。
「裁判の日取りが決まった」
 壁に沿って一周してから正面に立って告げると、椅子に座って盆を引き寄せたネサラは、そうか、と唇だけ動かした。
「日取りは訊かないのか?」
「いつだって一緒さ」
 匙を取り上げて椀の汁をかき回す。声の掠れはなくなっていた。
「それはそうだろうが——五日後だ。その前日に迎えにくる。それから一日地上で身支度をして、裁判だ」
「わかった」
 そっけなく返事をして、食事を口に運び始める。手や口の動きは速かったが、せわしないという印象は受けなかった。パンも汁も付け合わせも、決して味の良いものではないだろうが、嫌そうな様子はない。
 ネサラの背中の羽は動かない。その根元を幾重にも鎖が戒めていて、動かせないようにしている。黒い羽毛に覆われているため傍目にはわからないが、地肌は赤く傷ついているのだろう。
 ティバーンの感傷とは裏腹に、手早く食事を終えたネサラは盆を差し出す。
「ごちそうさん」
「……何か入り用はあるか?」
「いや」
 ネサラの視線に気がついて振り返ると、心なしかリュシオンの顔色が悪い。急いだ方がいいな、とたいまつに火をつけて部屋を出ようとすると、ネサラが二人を呼び止めた。
「待ってくれ」
「なんだ?」
「裁判に来てほしい人がいる。俺から手紙を書いてもいいだろうか」
 ティバーンとリュシオンは顔を見合わせる。
「もちろんかまわないが」
 答えを得るや否や、ネサラは立ち上がって棚に向かった。紙とペン、インクを持って再び卓につく。本とともに手慰みに持ってきてもらったものだという。少し考える間を置いてから、筆が走る。内容は見えないが、よどみない筆致にティバーンは感心した。
 書き上げてから紙面上で手を振ってインクを乾かす。
「私が預かろう」
「頼む」
 丸めた紙をリュシオンの手に乗せ、ネサラはインク壷の蓋を閉める。
「宛先は誰なんだ?」
 ティバーンの問いかけにネサラが告げた名前は、二人ともが見知った相手であった。



「ネサラはめっきり口数が減ったな」
 日が沈んだ頃、ティバーンのもとにはリュシオンとヤナフ、ウルキが集まっていた。
「地下牢じゃ普通だと思ったんだが」
「あの部屋にあんなに長く閉じ込められて、発狂してもおかしくないだろうに……ネサラは出てからの方が、ずっと変わってしまったと思います」
「出てからというよりは、裁判が終わってからじゃないですか?」
「そうかもしれない」
 ティバーンにも、ヤナフの言い様は正しく思えた。裁判に出ていたティバーンからしてみれば、裁判中もあまり代わり映えして見えなかったものだが、今日のあの様子はまるでネサラではないようだ。
「ヤナフとウルキ、おまえらはあのあとキルヴァスに少し残ったはずだが、どうだった?暴動なんかは起きそうにないか」
 ネサラをつれての告示の最中、二人はキルヴァス国内の辺境の地にも情報が行き届くように掲示を監督していた。また、ネサラらがセリノスへ戻った後の国民の視察の役目も受けていた。
「暴動?そんなもんは、起こりそうにないが」
「が?」
「言いたかねえけど、あいつらおかしいぜ。一斉に王宮に向かって」
 言葉を止めたヤナフの表情が歪む。
「……行って見てこいよ。そうすりゃわかる。どうしてあそこまでできるのか、俺にはわからない」
「ヤナフ」
 ティバーンは背中にそら寒さを感じる。言い渋るヤナフに、不安は増していくばかりだ。拳を握りしめたとき、ウルキが動いた。耳に手を添え、遠くの音を捉えようとしている。
「王よ」
「どうした」
「ネサラの様子が……おかしい」
「何?」
「部屋で……何かをしている?」
 聞くなりティバーンは部屋を飛び出した。リュシオンらも慌ててそのあとを追う。ネサラの居室は別館に置かれていた。ティバーンや鷺らのいる本館とは距離がある。駆け抜けて部屋になだれ込むと、ネサラは床に倒れ伏していた。
「ネサラ!」
 リュシオンが悲鳴に近い声を上げて飛び寄る。膝をついてネサラの肩を掴み、抱え上げようと踏ん張る。
「何をしているのだ!?」
 見れば、左手で小刀を握りしめている。ぼたぼたと赤い血が音を立てて伝い落ちていく。
 指を一本一本引きはがしていると、リュシオンがティバーンの袖を引いた。
「背中が、苦しいと……!」
「背中だと!?」
 小刀を放り投げてネサラを引きずり上げる。額にも首筋にも脂汗が滲んでいた。重たい体をまさぐって、上着をはぎ取った。
 露になった背中には翼の根元であった場所に呪符が貼り付けられている。呪をかけたのはティバーンだったが、記憶のなかの呪符は真っ白で中央に青紺の文様が描かれているもので、いま目の前にあるどす茶色く焦げ付いたような跡を残すそれはまるで別物のようだった。
「ヤナフ!ウルキ!」
 ティバーンの怒号が飛ぶ。頭に血が上って、視界が霞んだ。
 呪の掛け方を指示した男は。
「は!」
「エルランの野郎を引っ張りだしてこい!!」
「すぐに!」
 二人が返事をし、去って行くが早いか、ティバーンは呪符に手をかけた。瞬間、焼け付くような痛みが走って手を引きかけるが、こらえて札を引きはがした。筋が切れるような音がして、ネサラが短く呻く。呪符からは薄く煙が上がっていた。
「ネサラ、ネサラ」
 リュシオンは泣きそうな声で背を撫でる。肝心の背中自体は無傷のようで、滑らかな肌が粗い呼吸に従って慌ただしく上下するのみだ。ひりつく指先を擦りあわせて舌打ちをする。
「ネサラ、翼を……翼を出して。そうすれば楽になれるのだろう?」
 リュシオンの問いに、ネサラは頭を振った。血を流す左手は放り出されて、右手は床をかんで震えている。
 ティバーンは両脇の下に手を差し込んで、力の入らない体を持ち上げると、正面から抱きしめた。肩に乗った頭蓋の奥から歯ぎしりの音が聞こえる。
「翼を出して!」
 繰り返すリュシオンの様相は必死だ。
「ネサラ!」
「言われた通りにしろ!」
 ほぼ同時に叫ぶと、逡巡してからネサラはその言に従った。目前に黒が広がる。一気にネサラの体から力が抜け、先ほどまでとは違う重みがティバーンへ加わる。
「大丈夫か?」
 ネサラからの反応はない。ぐったりとティバーンにもたれかかったまま動かずにいる。リュシオンが立ち上がって、薬と包帯を携えてネサラの左脇にかがんだ。慣れない手つきではあったが、なんとか手当を終える。
「一体なんだってんだ」
「……呪符に、何があったのでしょう」
 ネサラが裁判への出席を求めた相手は、エルランだった。
 エルランは裁判に呪符を持って現れた。ネサラに頼まれたものだと言った。ティバーンの魔力でしか貼ることも剥がすことも出来ない呪符は、ネサラの背中を覆って翼が不意に現れることを防ぐという。
 だが、この有様はなんだ。
「まだ捕まらねえのか、あの男は」
 焦れて呟く。痩身を抱く腕に力を込めて、現れたときに反射的に殴ってしまわないように重しにしたかった。
 ネサラが落ち着いたのか、身を起こそうと自らとティバーンの体の間に右手を差し込んだ。腹の辺りを押し返そうと試みるも、まだうまくいかないようだ。
「じっとしてろ」
「……」
 想定していた反論もない。
 様々な思いを呑み込んで、ティバーンはただ待っていた。触れているはずの腕にも手応えがない心地がした。
 部屋の外に人の気配を感じたのは、更に後のことであった。
「お連れしました!」
 ヤナフの先触れに続いて、穏やかな顔立ちの男が入室した。ウルキが外から戸を閉める。
「エルラン……」
 男は床に這いつくばる焦げた呪符を見て、目を細めた。
「よく耐えたものです」
 拾い上げて息を吹きかけると、呪符は跡形もなく消え去ってしまった。
「翼をあまり長い間しまい込んだままにしておくと、力が暴発して、とてつもない苦痛を伴います」
「それでこいつは苦しんだのか?」
「はい」
「言うことはそれだけか?」
 声音が怒気を孕む。エルランは歩み寄って、紙袋を差し出した。受け取って中を見れば、数十枚もの呪符が収められている。
「あの日お渡ししたものは応急にすぎませんでした。仕上げるには時間が足りなかったのです。本日の昼頃完成し、一度お尋ねしたのですが、あいにくお二人ともおられないとのことでしたので」
「そりゃあ災難だったな」
「左右の翼の根元に一枚ずつ。一日ごとに……最低でも三日に一回、貼り替えを行ってください。そして、貼り替えるだけではなく、少しの間翼を外に出して気を巡らせてください」
「わかった」
 ティバーンはぶっきらぼうに返事をする。と、腕の中のネサラが頭を持ち上げて、エルランを振り返った。
「……感謝、します」
 そして、大きく広げられていた黒翼をその背の中にしまい込んだ。目の前で見せられるのはこれが二度目だが、慣れないし不可解だ。仕組みが全くわからない。
「おい、まだしばらく出しといていいぞ」
「そういうわけには」
「出しとけって」
 ネサラは聞かない。はやく呪符を貼れとばかりに何もない背中をさらしている。
「鷹王様、試してみてはいただけませんか」
 エルランに促され、ティバーンは呪符を二枚取り出した。肩甲骨のあたりで呪符を押さえ、教えられた古代語を唱えて少ない魔力を指先にこめる。文様が暗く光って呪符がネサラの肌に吸い付いた。二枚とも貼り終えると、ネサラは今度こそ手に力を込めて起き上がった。顔色は良くないが、服を取り上げて袖を通す。
「では私はこれで」
 黒鷺は室内に背を向ける。ヤナフはティバーンの顔色をうかがったが、ティバーンの方はそちらに対応する気になれない。戸を開けて、ヤナフとウルキがエルランを送っていくのを視界の端で確認しながら、ティバーンはネサラの額の汗を拭ってやった。ネサラは鬱陶しそうに顔を背ける。
「無理をしないでくれ」
 しかし、頬を包むリュシオンの掌は甘受する。
「無理じゃあない」
「そんなはずはない」
 平行線をたどる言い合いに発展するのかと思ったが、ネサラは口をつぐむ。リュシオンもつばを飲みこんで唇を引き結んだ。ティバーンは床の血痕を適当な布を引っ張りだして拭いながらそれを眺める。
「……疲れた」
 そう言ったのはネサラだった。
「それは、そうだろう。ゆっくり休め。寝るまで側にいてやろうか?」
「休ませてはもらうが、側にはいなくていい」
「遠慮するな」
「おまえだって消耗してるだろう。心配かけたな」
「私のことはいいんだ」
「よくはないだろ」
「いいんだ」
「……二人とも、さっさと休め」
 ティバーンは思わず口を挟んだ。真っ赤になってしまった布を拾い上げる。これはもう捨てなくてはならないだろう。
「行くぞ、リュシオン」
「は、はい」
 後ろ髪引かれる様子のリュシオンの腰を押しながら、ティバーンは戸口まで歩く。出がけにネサラに向かって、指先を向ける。
「じゃあな、おやすみ。明日は大事な話があるから、覚悟しておけよ」

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