鷹と鴉と鷺の面々が集まった広間は、天窓から差し込む光で十分に明るい。彼らを呼び出したティバーンが入って行くと、上体をまげてネサラの手に頬を寄せていた鴉の男がその身を離して礼をとった。ネサラでもニアルチでもないその男は、ネサラがティバーンに紹介した、「一番信頼のおける鴉」であった。ネサラが王位を退いてから、キルヴァスで長のいない鴉の代表を務めている。
「よう」
ぞんざいだが声を掛けると、彼はかしこまった態度で挨拶を返した。
「キルヴァスはどうだ」
「おかげさまで問題もなく。鷹王様におかれましてもご健勝な様子でなによりと存じます」
「まあな」
横のネサラは口を挟むでもなく二人の会話を聞いている。左手の包帯が痛々しい。
ティバーンは手を挙げて、場の注目を集めた。
「今日はキルヴァスと——ネサラの今後について話をしたい」
静かに宣言すると、二人の鴉の表情が凍る。リアーネの側近くにいたニアルチは、年寄りらしからぬ動きでネサラの方へと移動した。リアーネもゆっくりとそれに従う。
「キルヴァスについては、もう言ってあると思うが、フェニキスとセリノスと統合したい。統一国家の民として、俺たちは一緒に暮らせるだろう」
ティバーンの意志は固い。ここにいる者たちの種はそれぞれだが、お互いを尊重することが出来ている。わかりあえないことがあっても、言葉を通わせることが出来る。数が増えてもそれに変わりはないはずだ。
「王には、鷹王様がおなりなのですね?」
そう確認したのは鴉だ。視線が一斉に集まって、彼は一瞬目を伏せたが、すぐにまっすぐティバーンを見据え直した。肝が座った男だと直感する。
「ロライゼ様がご高齢を理由に拒否なさるので、それが妥当だろうと思っている」
「ごもっともです」
背後に控えているネサラの表情からは内心がはかれない。次の話題はおまえだぞ、ネサラ。
「そこで、元鴉王」
ネサラははじかれたように顔を上げてティバーンを見た。瞳の色は心地よい闇の色だ。
「おまえに外交官を務めてもらいたい」
「外交官?」
「腐っても元王だ、各国の高官たちに顔が利くだろう。それを生かしてほしい」
ベグニオンでは特にな、という皮肉を喉の奥に閉じ込めてそう告げた。
「罪人が役人になるのか」
「罰はもう受けているだろう」
ここにいる幾数の鳥翼族のなかで、ただひとり翼を背負わないで立っている。思えばネサラは空を滑るのがうまかった。ティバーンなどは何度か翼を動かせながら空中を行き来するのだが、どういう技なのか、ネサラは翼の角度をほんの少し変えるだけできれいに飛んで行った。
「詳しいことは、あとで話し合おう。とにかく、以上二つの方針を、認めてもらいたい」
誰からも異論はあがらず、その場は散会となった。
「うう、ぼっちゃま……お頑張りくださいませ、どうか」
「ぼっちゃまはやめろ。言われなくても、与えられた仕事はこなすさ。いつだって同じことだ」
「ネサラ様、何かありましたらいつでもお頼りくださいね」
「おまえに頼るようなことにはならないとは思うがねえ」
鴉に囲まれたネサラは、以前と変わりないようだ。口元に薄い笑みを掃いてやりとりをする。しかし、ここで自分が近づいたら崩れてしまうのだろうとも思う。
「ティバーン」
「どうした、リュシオン」
「酷なことをお考えになるのですね」
苦々しげな表情に、心を読まれたことを悟る。
「そうか? 得意そうだろ」
「確かに、適材だとは思いますけれど…」
「ならいいじゃねえか」
かつてネサラが取引していたであろうベグニオンの貴族たちは、ほとんどが死に絶えたと聞く。役職や財産は新たな分割を経てつい先日始動したばかりのはずだ。そろそろ鳥翼による新国家として動き始めなければ、今後に支障を来す恐れもあるのだ。
ネサラはベオクの文化に造詣が深い。かつてはニンゲンによった嗜好を罵ったこともあるティバーンであったが、いまとなっては将来のためにその知識は必要不可欠といってもよい。
「働いてた方が、気がまぎれるだろう」
それからしばらくの間、ネサラを筆頭とした外交の体制を整えるために時が費やされ、怒濤のように過ぎて行った。とある朝、ネサラは広間でティバーンに挨拶をした。
「それでは、ベグニオンに行って参ります」
「ああ。気をつけろよ」
「我が王と国家に何事もございませんように」
露台で鴉が化身する。これから外交に向かう旅程中は彼がネサラの翼となる。常に化身の状態を保てるように半化身の技を習得し、懐にはオリウイ草や化身の石なども欠かさない。ネサラは鴉の背に負われ、化身しないままの鷹が二人これに従う。
鷹の二人を探すのが難題であった。外交という役は鷹にとって縁遠いものであった上に、ネサラと関わることを避けたりためらう者が多い。ウルキに何度かネサラについて鷹の兵士からの評判を報告させたことがあったが、聞くに堪えない内容であったことも多々ある。しかし、そう思ってしまう理由は無根ではないため、鷹ばかりを責めるわけにはいかない。なんとか見つけた鷹は二人とも年若く、齢は100にも満たない程度であったが、若さが柔軟性につながる性格だったようで、ネサラの罪状を受け止めた上で共に仕事をすることを承諾した。報酬が高額であることも理由の一つだとは思う。
これからベグニオン、ガリア、ゴルドア、クリミア、デインを順に訪れ、鳥翼連合国の発足や、外交のための挨拶に回る予定だ。もっとも、ネサラの翼のこともあるので一回一回セリノスに戻ってきはするのだが。
わずか四人の外交団を見送って、ティバーンは自室へ戻ると、キルヴァスより便りが届いているという知らせがあった。訝しく思いながらも受け取り、中身に目を通す。
「こいつは…」
送り主は例の鴉の頭役であった。
【鳥翼連合国家の成立に伴い、キルヴァスよりセリノスへ移民を行う必要があると存じますが、現状では不可能と言えます。】
ティバーンは眉をひそめた。続けて、ティバーンには現状把握のために今ひとたびキルヴァスを訪れてほしい、と記されている。日程の調整を求める一方でネサラには内密にという追伸が不安と焦燥を誘った。
一方で、ネサラは仕事を着実にこなして行く。同盟の締結、交易路の整備、大使館の設立などその内容は多岐にわたった。元国王の経験は伊達ではなく、投入される人員を余すことなく割り振っていく手腕は見事なものだった。
「セリノスへの移住の話はどうなっていますか」
そう尋ねられたのは、クリミアから戻ってきたばかりのネサラの報告を聞き終えて一息つこうとしたときであった。フェニキスから、あるいはキルヴァスから民を移すのは国内の問題であり、ネサラは一切関与していない。傍目に動きが見えないことに、彼は彼で不安なのだろうか。いまセリノスにいる鴉は、戦争に参加していた一団に過ぎず、なお多くの鴉がキルヴァスの国内に留まっている。
窓には厚手の布がかけられているが、その外はすっかり日が暮れてしまった後だ。夏の暑さはなりを潜め、夜間には肌寒さを感じる季節になっていた。
「正直に言えば、難航している」
「……鴉が移住を拒むのでしょう」
ネサラの眼差しは暗い。
「どうしてそう思う?」
「あの渇いた何もない土地で生き延びてきたのが鴉の誇りです。それを手放す決断は、そう簡単につくものではありません」
「そのようだな。あいつも苦心しているようだ」
ネサラの後継としてキルヴァスをまとめあげる男を思い浮かべる。彼はネサラに心酔するキルヴァス国民の見本とも言うべき男だ。キルヴァスの内情はつい先日お忍びで見てきたばかりだが、確かに移住は困難を極めるであろう。
「大変申し訳ないと……」
「おまえが謝ることじゃねえだろ」
頭を下げるネサラを制し、その手で招き寄せる。大人しく近寄ってくるのを確認して、引き出しから呪符を取り出してひらつかせると、彼は溜め息をついて上着の留め具を外した。
「背中向けろ背中」
「はいはい」
背中に触れ、魔力をこめた指先で呪符の隅をなぞる。毎晩のこの習慣のおかげで魔力の制御がうまくなってきた気もする。それが何に役立つかは知らない。札を二枚とも外し終えると、ネサラは背中を少し前にかがめて肩甲骨の辺りから黒色を現した。獣に近いネサラのにおいが鼻孔をくすぐる。ティバーンは思わず口元を緩めて、一番長い羽根に触れた。
「やっぱり前より艶がないよなあ」
「そんなに触るな」
翼を背負った途端、ネサラの口調がくだける。ネサラを一味同心を望む相手として扱い、敬語を頑として受け入れたがらなかったティバーンに、ネサラが根負けして提案した折衷案だった。ティバーンの望み自体、ネサラは己に不相応だと考え直すように求めたが、彼はその負い目から強くは出れない。結局ネサラがティバーンに従う他なくなってしまった現状を、ティバーンは歯痒さとともに呑み込む。最初に思い描いた鳥翼の統一国家は、こんな形ではなかったはずなのに。
「おいって」
ティバーンはネサラのいらついた声にかまわずその柔らかな羽毛に顔を埋めた。
「俺のもんになればいいって、ずっと思ってたのにな……」
「おーい」
低く呟いた声はネサラには届かない。
「黙ってされてろ」
「なんて横柄な……」
そう零したネサラはそれきり反抗しなくなった。ティバーンは素肌をさらすネサラの腹部に手を回して抱きつく姿勢をとる。大人しいネサラにはまだ慣れない。この翼は風の魔力を秘めているのではなかったか。
いつまで待っても頬に感じるネサラの鼓動が己と重なる瞬間は来なかった。
「ダルレカ?」
どこだそれは、と問い返したティバーンに答えたのは、ネサラが今回の出張で伴い、また前回デインへ赴く際にも同行したという鷹の兵であった。今回の報告はベグニオンとの会合の結果であったからそれとは関係ないながらも、聞き流すには少し引っかかる内容であった。
「デインの一都市です。中央からは離れておりますが、活気のあるところでしたよ」
「そこでネサラが何したって?」
「領主館らしき場所でその主と会ったようです。我々は同席を許されませんでしたので、内容までは…」
「そうか。……帰ってきたのなら、心配はいらねえだろう。ご苦労だった」
兵士が下がってから、地図で場所を確かめる。ティバーンはしばし記憶を探ってその地名について何かを思い出そうとしたが、結局それは果たされなかった。
そこでダルレカの件は置いておいて、ネサラからの報告書に目を通すことにした。これまでの各国との会談で確認された国境線と必要となるであろう関所。セリノスの森はベグニオン領内となっていたため、同じくベグニオン領である各隣接地域の領地を確認し、関所の設置について協議した結果が克明に記されていた。タナス、という文字に複雑な気持ちを覚えたが、過去のことだ。ネサラによれば、オリヴァーは相変わらず鷺にご執心で、ある意味では扱いやすいよい交渉相手だとのことだった。リュシオンをネタにしないよう釘を刺すのは必須であった。
ネサラの筆跡は流麗だ。インクの色も独特で、ティバーンは内容はともかく、報告書が届くのが毎回楽しみであった。直接話すのとは違うネサラの内面に触れられるような気がした。
しかし、とティバーンは懸念する。さっきのように、報告に代理をよこす頻度が格段に上がった。毎晩顔を合わせているのは確かだが、ネサラに避けられているのではないかとはティバーンでも薄々感付きつつある。
空の色は濁っている。セリノスの森でも季節の移り変わりに沿って葉が落ち始めて、城からでも空の色が見えるようになってしまった。ティバーンは体を伸ばして立ち上がった。寒くなったら体を動かすに限る。適当な理由を引っさげて訓練場に向かうと、何やら大きな歓声が上がり、いつもとは違う雰囲気が伝わってくる。
「なんだどうした?」
近くにいた兵士に話しかけると、彼は興奮気味にまくしたてた。
「ネサラ様が、短剣で鷹の兵士に連勝を重ねていらっしゃるのですよ!」
「は? 何してんだ、あいつは?」
鴉の兵士の頭越しに見れば、空を舞う鷹に相対して地上に足を踏みしめたネサラがいる。手にしているのは木で出来た訓練用の短刀だ。襲いかかる鷹の鉤爪を飛び退って躱し、そのこめかみに刀を打ち込んだ。
「げっ」
ティバーンは思わず声を上げる。打撃を受けた鷹はその場に落下し、化身を解いてしまった。気を失っているようだ。無意識に自分の側頭部をさすり「容赦ねえな…」と漏らす。場内の喧噪はひときわ大きくなっていて、周りを見回すと、鴉のみならず鷹の兵士たちもネサラに賞賛の眼差しを送っていた。
もう一度ネサラに視線を戻すと、打ちのめした兵士の側で医療兵の診察を見守っている。
「王も挑んでみてはいかがですか」
「あ?」
自分たちの王の登場に気がついた鷹の兵士たちが沸く。
「いやいや待て待て、あいつと戦う気はないんだ、俺は」
「ええー仇とってくださいよ!」
「おーい、王が来てるぞ!」
「外交官に挑戦するってよ!!」
「おいおいおいおい」
あれよあれよという間にティバーンは訓練場の真ん中まで引っ張りだされ、ネサラと対面する形になった。両手で模擬刀をもてあそぶネサラの表情は渋い。
周囲の興奮は冷める気配を見せず、高まっていく一方だ。
「……どうする?」
「どうするもなにもないでしょう」
困ったようなふりをしたものの、内心ティバーンは気持ちの高揚を感じていた。空気に飲まれたというのもあるし、化身してないとはいえ鴉王の立場であったネサラと戦うことはまたとない機会のように思えたからだ。
ネサラもネサラで、この場で打ち合いを避けることが出来るとは思っていないようだ。
「よーし、それじゃあ俺も、化身しねえで戦うぜ!」
腹を決めたティバーンはそう叫んだ。歓声はどよめきに変わる。
「化身した王を相手にするなんざ、細腕の外交官がかわいそうだからなあ!」
「言うじゃないか」
ネサラの口端が不機嫌そうにつりあがる。久々に見るその表情に、ティバーンは内側からこみ上げる震えを抑えかねた。この矜持が、ネサラだ。
ティバーンが拳を握るのと、ネサラが短剣を持ち替えたのはほぼ同時であった。