あとを追ってきた部下たちに先に帰っているように言い置くとティバーンはマナイルを飛び出しておぼろな地図の記憶を頼りに北を目指した。他国領内での許可のない化身が禁じられていることが今は煩わしい。昨日から降り続けている雪が視界を攪乱する。気流も安定しておらず、発散しようのないいらだちと戦い続けなければならなかった。
随分と時間をかけながらもようやくベグニオンとデインの国境の一部であるセンペル湖が見えてきて、同時に妨げであった降雪もなりをひそめていることに気付く。
もう一息だ、と速度を上げようとして、横から吹き付けてくる風の流れを感じて一旦止まると、西方から大規模な渡りの鳥が滑空してくる。あまりの間の悪さに舌打ちをする。目前を横切るのは危険すぎるのだ。避けるべきことに変わりはないが、上か下にちょうど良い風がないか首を巡らせていると、背後から別に翼の音が聞こえてきた。
「鷹の御仁!」
かけられた声は大きくはないもののすっと通って耳まで届く。ティバーンの隣まできて停止したその影は、飛竜のものであった。またがる眼帯の男が目礼をよこす。
「……おまえか」
面差しを見て、ようやく合点が行く。ダルレカの荷運び人。この男もまた、ティバーンやネサラらとともに女神の塔に討ち入った人員に含まれていたはずだ。塔を目指す道中にはネサラと同じ隊に組み込まれていたと記憶している。
「間に合ってよかった」
「俺を追ってきたとでも言うのか?」
「ネサラ殿からの依頼の一つだ」
出てきた名前に耳をそばだてる。渡りの羽音は大きかったが、聞き漏らすわけにはいかない。
「じゃあ、ネサラを運んだって言うんだな」
ようやく掴んだ手がかりの大きさに、ティバーンは早くも安堵を感じていた。脳内を駆け巡っていた血流が落ち着きを取り戻していく。
「ああ。キルヴァスまで」
「キルヴァス……理由は聞いてるか」
「確かめたいことがあると言った」
息が詰まる。
「誰かと会ったか?」
「いいや」
ネサラが何を見たのか、ティバーンは知っていた。何を確かめに行ったのかわからないティバーンではなかった。
相変わらず何を考えているかはわからないし、元が素知らぬ顔をして裏切りを実行にまで持っていけるほどの度胸を持つ男だ。誰にも気取られずに今回の失踪も遂げられた。結果的に彼を思い詰めさせることになったのは、ティバーンにも原因があるのかもしれない。そのことを思うと、ネサラを前にして、真っ当に怒れる自信がなくなってしまう。
「ネサラ殿がいなくなっていたことに気付いておられたのか?」
「当然だ、国一番の鴉が同盟の調印式なんていう晴れ舞台にいなけりゃ誰だって気になるだろう」
「あの人はそうだと思っていないようだったが…」
「あいつは自分を軽く見すぎるんだ。で、依頼っていうのはなんだ」
話を戻すと、ハールは騎竜の腹にぶら下げていた皮袋に手を入れる。取り出してティバーンに差し出したのは、細身の短剣であった。
「渡してほしいと」
受け取る手が、震える。
おそるおそる鞘から刀身を引き抜くと、曇り一つない鋼が輝いた。
腹の底から大きく息を吐く。
「………あいつはいまどこに」
「送り届けた先はタナス公爵邸だが、この朝同時に館を出た。今頃はセリノスに帰り着いてるんじゃないか?」
「セリノスに帰ると言っていたのか?」
「その証の短剣だと思ったのだが」
「……そうだな」
ティバーンは短剣を腰のベルトに挟み込む。
「短慮に付き合わせて悪かった。この礼は必ずする。ダルレカ、でよかったか?」
「ああ。ついでに、俺本人をつかまえるよりもダルレカ領主に問い合わせた方がよっぽど早いとだけは言っておこう」
「領主に? わかった。そうさせてもらおう」
周りを見渡せば渡りの影はもうまばらだ。手綱を揺すって竜を宥めるハールと別れ、ティバーンは鳥の群れに背を向けて南方へとはばたいた。
真実に近づけば近づくほど、ネサラを責められなくなる気がした。職務に依らない出奔は明らかに叱責の対象なのに、私情にまみれて、なかったことにしてしまいそうだ。
昨晩眠れなかったこともあり、流石に少し疲れを感じて川辺に降り立つ。靴の底が、溶けた雪でぬかるんだ土に沈む。その感触が珍しくて、ティバーンはしばらく近くを歩いて回った。
街道を通る者はいない。川幅は広く、流れる水は穏やかだ。対岸遠くの崖を見て、河川の名前を思い出した。戦中にガリアの兵たちと渡河作戦を実行した川だった。
裏切られた直後の話だ。内臓が締め付けられる感覚に襲われる。
「1年か」
自分に言い聞かせるように囁いて、白い息を吐き出す。
王の役割とはなんだったのか。軍を率いて戦争に出たものの、帰る国を失いかけた自分はなんだ。その男が新しく鳥翼の王に就いたのは過ちなのではないかと考えるのははじめてではない。なのに、それを指摘できる唯一の鴉は口を閉ざしてしまっていた。
フェニキスへようよう帰り着いたときにも、セリノスへ向かったときにも、民の口から恨みが聞こえることはなかった。白い煙が薄くたちこめる国土を思い出すたびに喉がひりつく。
新国家の体制が整い始めて、最近になってようやく復興の話を進められるようになってきた。セリノスは十分に居心地がよかったが、鷹たちはフェニキスに帰りたがるだろうか。
そして、いまキルヴァスにいる鴉たちは、翼を取り戻したときセリノスに来るだろうか。
立ち止まると、考え事をしてしまう。
ティバーンは今ひとたび地面を蹴った。このまま川沿いに南下していけば右手にセリノスが見えるはずだ。
日が沈みきってからしばらくが経ち、ネサラとハールがタナス領に戻り着いたときに出迎えた給仕は、彼らを見送った男であった。ネサラは丁重な礼とともに外套を返す。ネサラはもとより一泊する予定であり、そのままデインへ戻ろうとするハールを引き止めた。
「明日、タナス公が我が王に殺されてないか確かめてやってほしいんだ」
冗談めいた口ぶりで頼んだが、半ば本気の依頼であった。鷺に関してティバーンの沸点は圧倒的に低い。不用意なオリヴァーの発言で彼がどう出るのか、火を見るより明らかだろう。
その頼みを快諾すると、ハールも主のいないタナス邸に招き入れられ、一晩を明かした。夜を飛ぶことに不便はないが、やはり寒さは体にこたえるようだ。
朝になり、出立を告げ館の戸を開けると、追いかけてきた給仕が当然のように外套を広げたので、ネサラはやんわりと制止する。
「あとはもう帰るだけだから」
「しかし冷えるでしょう」
「……返しに来られないかもしれない」
「構いませんよ」
その笑顔には焦りも戸惑いも見られない。
「………俺が何だか、わかっているのか?」
半獣で、異国の民で、裏切り者の罪人だ。自分で自分の心を抉り取りながらも、問わずには居られない。向けられた笑みにいっそうの深みが増す。
「もちろんです。それに私としても何の打算もないというわけではない」
「打算だと?」
「あなただって鷺の庇護者だ」
膝裏まで長さのある外套をネサラの背にかぶせながら、答える。ネサラは顔だけ振り向きながらその瞳の輝きに魅入ってしまう。
「おまえは」
「あの方には申し訳ないが、私もただ待っているわけにはいかないんです。あなたがたよりずっと短い命のあるうちに、あのうつくしいかたちをこの目で確かめて、この手で掴みたい」
屋内では焚かれた香に惑わされてしまっていたが、冬の外気のもとでは彼の身にしみこんだ顔料と油の匂いが明らかだった。
袖を通しながら、ネサラも口元を緩めた。
「そうか。あの男の下にいる割に、おまえはまともだな」
「褒めてくださるのなら、どうかお願いいたしますよ」
律儀に待っていたハールは、二人が話を終えたと見ると歩み寄ってネサラの腰に触れた。ネサラはぎょっとして固まる。
「これは持っていくのか」
「いつ気付いた……あのときか」
ネサラは上着の脇腹に手を入れて、柄の装飾の美しい短剣を引き抜いた。柄頭にはキルヴァスの紋章が浮かし彫られている。
キルヴァスでハールに抱え支えられたときに偶然でも彼がそこに触れたのなら、気付くのは容易かったろう。数呼吸分置いてから、ネサラは刀をハールに握らせた。
「我が王に、届けてくれ」
「承知した」
報酬は、と動いた薄い唇を手を振って止めるとハールは懐に触れて、これで十分足りると言う。
「セリノスまでは送らなくてもいいんだな」
「ああ。俺は歩かなければいけない」
思い返せば、どこに出張するにも、他の翼がネサラを運んだ。この足が国境を跨ぐことはなかった。
ちりちりと翼の根元が痛んで、限界が近づきつつあることを知らせる。
翼とともに命を失うのはある意味理想的ではあるが、そうできない理由がある。王でもないネサラに殉じて翼を封じた鴉たち。ネサラが姿を消したなら、彼らが再びはばたく日は訪れないかもしれない。
この足でティバーンに会いに行かなければならない。
ハールと別れて門から出たネサラは、タナス領を西へと横切ろうと足を向ける。すぐにミスケーレ大河に行き当たるはずだ。そのまま左手にセリノスの森を見ながら土手の上を橋まで北進する。
真正面からセリノスに乗り込む算段をつけながら、ネサラは一歩一歩を踏みしめた。
高度を上げてもよかったが、地を歩いているだろうネサラを思うとそんな気にはなれない。道中で見つけ出すことは出来ないだろうが、少しでもネサラの近くにいたかった。ヤナフやウルキがいれば見つけ出すのは簡単だろうが、それも意味のないことだ。
二晩が経っている。あの翼が失われてしまったら、ティバーンはキルヴァスの鴉に申し訳が立たない。彼らはネサラを追って翼も命も捨てるだろう。それはティバーンが鴉を殺すのと同義だ。
ベグニオンとセリノスをつなぐ橋を視認して、ティバーンは辺りを見回した。この一帯は雪が積もらない。足跡の一つでも残っていれば大きな進歩なのだが、雪がなくてはわからない。橋の中央にある関所に確認すればわかりそうなものだが、厄介なことになるのはほぼ間違いない。面倒ごとは避けるべきだ。
橋の下をくぐった後で河原から土手の上へと移動する。
対岸のセリノスに一旦帰るべきか迷いながらもずるずると南進を続ける中で、ティバーンはその人影を見つけた。
確かな足取りで歩いてくる影。
翼がなくても。
衣の色が黒でなくても。
見間違えではない自信がティバーンにはあった。
飛んでいけばすぐに迎えに行ける距離なのに、それをせずに腹の底まで空気を満たして、唯一の名前を口にした。
「ネサラ!!」