ティバーンは口の中で血の味をいやというほど味わって、結局地面に赤色の混じった唾を吐き出した。場内の歓声は最高潮に達している。ティバーンは尻餅をついたまま気を抜いているネサラに手を差し伸べた。ネサラはしばらくその掌を眺めてから、自力で立ち上がった。やおらに捲られた左腕は赤く腫れている。ティバーンの蹴りをまともに受け止めた部位だ。
もう何も残っていない。ティバーンは感慨深くその腕を眺めた。誓約の印だと見せつけられたときのことを忘れはしない。何も知らなかったことも、何も気付かなかったことも、そのとき初めて後悔した。
「医務室行っておくか」
「……そうですね」
とってつけたような敬語が煩わしい。賛辞とともに押し寄せてくる兵士たちを躱しながら、二人は屋内の医務室へと向かった。
秋も終わり頃の空気は発熱し汗を流した体を急速に冷やし、二人はどちらからともなく早足になった。
血相を変えた鴉の医療兵は、ネサラを部屋の奥へと引っ張って、時間をかけて手当を行った。放置されたティバーンは面白くないが、そこまで重大なけがはしていない。もっともそれはネサラも同じはずだが、鴉の過保護さは今に始まった事ではない。とりあえずティバーンは桶から水を掬って口の中を濯いだ。湿布薬を探し出して適当に塗布する。いたるところに塗り付けた傷薬は当然のようにしみるが、生活に支障はなさそうだ。布を水に浸してしぼって、殴られた顎を冷やす。漏れ聞こえてくる叱責を聞きながら、ネサラが現れるのを待った。
うんざりした顔のネサラが出てくるまでにはいくらかの時間があった。待ちくたびれたティバーンは机の上に並べてあった鴉と鷹のあらゆる項目での平均値を検分していた。
「勝手にいじらないでください!」
「少しくらいいいじゃねえか。俺のことほっときやがって何言いやがる」
「鷹は頑丈だから少しくらいいいんですよ。あっ傷薬いくつ使ったんですか!?調合薬を使ってしまえばよいのに」
ティバーンの言い分をまねして鴉は言い返す。この医務室の鴉にティバーンを含めた鷹は頭が上がらない。熱くなると自省を忘れる鷹はしばしば訓練でも大怪我を負い、医務室に運び込まれ、治療を受ける。自らの戦闘能力の向上にばかり目を向けることを非難され、いざというときにどうする対処するのかをこの鴉から叩き込まれた鷹の数は決して少なくない。
「ったく、鴉って奴はどうしてああいえばこういう……」
「なにか?」
この鴉にとって、医務室の中では王も兵士もない。
「いや。治療は終わったんだな?」
「もちろんです。顔に傷を付けなかったことだけは、評価します」
顔を腫らした外交官など目も当てられない。ネサラの見てくれは悪い方ではなく、目つきさえ気をつけていれば初対面で嫌悪を抱かれることはまれであろう造形をしているが、痣の一つもこしらえようものならその評価は覆る。ティバーンは己の顎から頬にかけて広がる熱い痛みを濡らした布で押さえながら、胸を張った。
「当たり前だ」
「……避けたのは俺だ」
不機嫌そうな顔色で、ネサラはそう口を挟んだ。鴉はティバーンを睨め付ける目に一層の力を込める。
「王?」
「おいおい、何言ってんだ」
「鼻っ柱めがけて蹴り入れてきやがって。さすがに肝が冷えた」
「………」
正直、ティバーンは戦いの詳しい様相を覚えていなかった。反射で戦う男には覚えていろという方が酷というものだ。
「仕事に戻る」
「ネサラ様!ひとつだけよろしいですか」
「なんだ」
機嫌の悪いネサラを剛胆にも引き止めた鴉は、少し迷ってから尋ねた。
「どちらがお勝ちになったのです?」
ネサラとティバーンは、まるで計ったかのように同じ呼吸で
「俺だ」
と答える。互いの声を聞きとがめて二人は視線をかち合わせた。言い合いが始まることを危惧したが、それは果たされなかった。
「……どちらでもいいことだ」
ネサラは顔を背けて部屋から出て行こうとする。ティバーンもその後を追い、二人は連れ立って城の中枢へ戻る。翼がなく歩いていくしかないネサラと並ぶために、ティバーンも不器用ながら歩を進める。
ティバーンは乏しい記憶を掘り返して、互いが相手に食らわせた打撃の回数やそのダメージを思い出そうとしたが、思い出せる範囲内では大差はないようであった。
「引き分けか?」
唐突に話しかけるが、ネサラはさして驚きもせずに淡々と応える。
「お好きなように」
その表情には先ほどティバーンを喜ばせた硬くて高い自尊心は欠片も見出せなかった。
ティバーンは足を止めてしまう。ネサラはどんどん歩いていって、振り返ることすらしない。遠く見えなくなっていくネサラを見送るティバーンの胸中は、苦い。ティバーンはネサラをある意味では尊敬している。手痛い裏切りにあって、国土を失いかけた今でもその気持ちに変わりはない。先ほどの闘技場で見たような、鴉たちからの憧憬が前にも後にも変わりないように。王であったネサラを尊敬せずにはいられない。結局ネサラは国を守った。自分にはできなかったことを思うと、どうしてもネサラを責めることはできないのだった。
だけどもうネサラは王ではない。王たるネサラの命を絶ったのは己が手だ。王だった時分のネサラの有り様をいまの彼に求めることは間違っているのか。
答えのでないことがわかりきっている問いを考え続けるのは、苦手だ。
悶々とした思いを抱えたまま仕事部屋に戻ると、ヤナフが待ち構えていた。その睨め付けに圧されて視線を泳がせると、少し離れたところでウルキもこちらに目を向けている。
「仕事を、放り投げてったことは、悪かった」
絞り出すように謝意を告げると、ヤナフは怒らせていた肩を降ろして溜め息をついた。
「まったく、それでネサラと遊んでたってんだから、世話ないですよねっ」
「だから悪かったって」
苦笑いを浮かべながら執務机に歩み寄る。ヤナフは机の角に座って身を乗り出した。
「なあ、おまえ、立ち場って奴、わかってる?」
「突然何の話だ」
ヤナフのぞんざいな口調には警戒する。この後に続くのは、王と臣下の間での進言ではなく、昔からの友としての忠告だ。
「今回のことだけじゃない。おまえはネサラに甘すぎる」
「罰のことか?おまえだってネサラを殺すことには反対してただろう」
「それはいいんだよ。俺が言いたいのは、おまえがネサラとの仲を縮めると、鷹と鴉の関係に響くってことだ」
「俺がネサラと仲良くしてるって?ネサラは一貫してよそよそしい態度だ、仲良く出来るわけがねえ」
「そのおかげで距離が保ててるんだ」
「じゃあいいじゃねえか。何が問題なんだ」
話の終着点が見えないことにかすかな苛立ちが持ち上がる。ヤナフは言いよどむように少し間を置いてから口を開く。
「おまえがネサラを持ち上げようとすればするほど、鷹は鴉が優遇されるんじゃないかと疑う。鴉は悟って縮こまる。いいことは何一つない」
「だが俺は」
「もっと親密でありたいのか?」
ティバーンは思わず息をのむ。肯定してはいけない。だが否定するわけにもいかない。
「ネサラと元通りの仲に戻りたい?」
ヤナフの瞳に覗く哀れみに似た色。
「……俺は」
部屋の空気が重い。拳を握っても振り上げられない。振り下ろす先もない。
言葉にしたことはないが、ふとしたときに、全部夢だったらいいのにと思う。何もなかったかのように、ネサラと軽口を叩いて鷺とともに戯れて。
そして失われた命の多さを思い出して潰されそうになる。
「現状に後悔したりは、しない」
絞り出した声がヤナフに届いたかどうかは知れない。だが、その唸りを最後に会話は途切れた。
めっきり寒くなったその朝、ティバーンはくしゃみとともに起床した。太陽が遠い。
急いで露台に向かうと、既に外交団は支度を終えていた。
「間に合った間に合った」
「なんだ、来ないのかと思いましたよ」
ネサラはそう言って笑うが、ティバーンはネサラの出立の見送りを欠かしたことはない。傍らに立つニアルチとリアーネも、同じように毎回見送りに現れる。
「随分と寒いな。風邪引かねえように気をつけろよ」
「まあ、ベグニオンの大神殿は暖かいでしょうし心配いりませんよ」
「そうか。ここもそろそろ大暖炉を動かす時が来たようだなあ」
帰ってくるときにはきっと暖かいぞ、と声をかける。背後の部下たちは嬉しそうだが、ネサラは曖昧に笑うだけだ。
今回の出張先はベグニオンだ。サナキの名による会談の指定だということもあって、ネサラは子飼いの中で最も能力に伸びを見せるメンバーを揃えたらしい。
「なあ、休暇を取る気はないか?」
「休暇」
「ベグニオンとの同盟も、だいぶ話が固まってきたんだろう。無事まとまったら、体も空くだろう?」
「……そうですね」
各国との外交体制も安定し、クリミアやデインにネサラが赴く回数は減ったが、ここ一番というときにはやはりネサラが直接行ってしまうと聞く。部下たちは定期的に休養がとれているようだが、ネサラの負担が大きいことをティバーンは知っていた。
「じゃあ、そろそろ行きますので……詳しい話は、また」
「無事を祈っている」
簡単に言葉を交わすと、ネサラはリアーネに向き直り、彼女が随分と上達した現代語で挨拶をするのを和やかな表情で見守っている。
ネサラが選んだ翼は、鷹であった。飛び去って行く影を見送りながら、ティバーンはしみじみと考え込んでしまう。二人が訓練場で組み合って以来、ネサラの評価はうなぎ上りであったらしい。そもそもその外交の手腕で一目置かれる存在となってはいたが、鷹の大勢は自らと異なる分野での仕事を評価し得ないでいた。そこにきて、自分たちの得意とする戦闘という分野に著しく不利な条件を伴って現れ、それをものともせずに兵士たちを打ち破り、なおかつ王に対しても幾重の打撃を与えた——単純な鷹にはそれで十分だった。強いというだけで尊敬に値する。今までネサラを評価しかねていたのは、その頭脳労働を駆使する面ばかりが聞こえてきて、王たるに値したはずの肉体的強さを知る機会がなかったのも原因の一つであろう。これを打算で行っていたのだとしたら、全く恐るべき男だと思う。ヤナフには耳に痛いことを言われたが、この結果にはティバーンは関与していないはずだ。ネサラの実力がものを言った結果。ともかく、ネサラと鷹が互いに信頼関係を持ち始め、翼として扱うほどにまでなったのだということに、ティバーンは一種の感動を覚えずにはいられなかった。
幸先の良さを見つけられて、その日一日中ティバーンは機嫌が良かった。訓練場でそれを指摘されて、ティバーンはその場の全員を引き連れて大暖炉の整備に取りかからせた。彼らも冬の訪れに身を縮こまらせていたので、この行事は喝采とともに敢行されたのであった。
火の入った大暖房は城全体をゆっくりと暖めていき、必然の流れとしてその晩は鷹も鴉も入り交じった大宴会となった。
目を覚ましたティバーンは、見下ろす顔の呆れた表情にしばらく気がつかなかった。
「……おかえり」
「暖かくてよく眠れるのはいいんですけどね、もう昼過ぎです」
「何時頃帰ってきたんだ?」
「朝一番で」
そうか、と返しながら起き上がると寝ていたのは自室であると知れたが、自分の力で戻って来たのか誰かが運んでくれたのかティバーンには覚えがない。
「俺が起きるのを待っていた?」
ネサラがカーテンを開けると、とうに上りきった太陽の光が白く滲んで室内に入ってくる。
「そうじゃなかったらここにはきてないですよ」
「なんで起こさなかった?」
「お疲れかなと思って。昨日は随分騒いだようですので」
「知ってたか」
苦笑してティバーンはネサラに報告を促した。鳥翼とベグニオン間で結ぶ同盟の調印式の日取りと場所の最終確認であった。この同盟は、他の全ての同盟に先立たなくてはならないと、サナキが強く希望しているという。内容に一切の不服はない。ティバーンは承諾し、式辞を詰めていくよう指示をした。
「休暇に何をするかは考えたか?」
唐突な質問に、ネサラは口を開きかけて沈黙する。
「考えなかったのか」
「……特にすべきことはないなと」
真面目な顔でそう答えるので、ティバーンの方が困惑してしまう。
「じゃあ一緒に旅でも行くか」
「はあ…?」
「仕事は抜きに、クリミアの静かな田舎にでも行って、うまいもん食ってゆっくり休んで帰ってこようぜ」
ふとしたときにユリシーズに聞いた、彼の故郷の話を思い出して提案する。フェニキスなどにはない農村の生活にティバーンは興味を持っていた。
「一緒に…」
「ひとりがいいか? 俺よりもリアーネの方がいいか」
「いや、一緒の方がいいのかもしれない」
「どういう意味だ」
言葉はよい方に受け取り得るのだが、ネサラが表情を変えないので、また面倒なことを考えているのだろうと予想する。
「俺はまだ王の監督下にいるべきだということだ」
「そんなつもりは全くねえが、おまえがそう思いたいってんなら構わねえぜ」
もう少し考えさせてくれとネサラが言うのでティバーンはその話を一旦切り上げることにした。翼を現し休む間も考えるのをやめずに、ティバーンが控えめに話しかけても返ってくる応えは芳しくなかった。退室していくネサラを見送って、溜め息をつく。元が勤勉な性質であろう彼は、王であったときはどのような頻度で休んでいたのだろう。ことあるごとに数少ない執務すら放って城から飛び出していたティバーンにとっては理解し難いものであることに違いはなさそうだ。
再三に渡り修正が繰り返された式辞案をネサラが伝えに来ることは一度もなかった。煩雑を極める諸連絡を合理化するためだと説明がある。多忙なネサラの手を煩わせることは本意ではないので、不満がないわけでもないが、ティバーンは受け入れた。
「ネサラは、キルヴァスでも働き詰めだったのか?」
最終決定として書き起こされた紙面をもらいながらティバーンは尋ねる。
「え? ああ、そうですね。……休みたくても休めない事情もありましたし」
鴉の言葉の歯切れは良くない。そうか、と返して彼を下がらせた。
首筋を軽く揉みながら厚手の紙を睨め付ける。ネサラの話をしようと思うといつも血の誓約が邪魔をする。彼の意思がどうあったのか判断することができない。
前々から言われていた通り、明日ベグニオンでの調印式に出席し、一晩過ごして明後日帰国することになっているようだ。目で追い始めた文字がネサラの筆跡ではないことに少し気落ちする。
ティバーンは字があまりうまくない。はっきり言ってしまえば下手ですらある。鷹のほとんどは、読むことが出来ても書くことは不得手のはずだ。リュシオンはそこに目を付けて、鳥翼に公立の学問所をつくろうという案を出してきている。一方で鴉はキルヴァスでどのような教育を受けてきたのか、少なくともネサラがつれてきた鴉たちは、みな器用に筆記具を操る。関連案件で鴉側に協力を仰ぐことは大変有用であろう。
傍らの紙にその思いつきを書き留め、己の筆跡に眉根を寄せる。字の練習にもなるとリュシオンに勧められた習慣であったが、まざまざと見せつけられる劣り様には辟易する。ティバーンは顔を背けて式辞を覚える方に集中しようと試みた。
「言っちゃなんだが、下手だな」
夜になって現れたネサラは机の上に散らばる書き付けをまじまじと眺めてからそう口にした。署名の練習をしていたのだが、書けば書くほど自分が何を書いているのかわからなくなっていった。ティバーンはペンをネサラに差し出して紙面を指で示す。
「書いてみろ」
「俺の名前を?」
「それでいい」
滑らかに名を記すのは一瞬の動作で、右上がりの書体はいつも見るそれであったが、実際に書いている様子を見るのは久々であった。思い返せばキルヴァスの併合に同意するとき以来。
「……俺の名前も書いてみてくれ」
返事の代わりに筆が動き、ティバーンのそれとは大違いな字列が完成する。
「代理で署名してくれねえか?」
「血の誓約を結ばされてもいいのなら」
「笑えねえ冗談はよせ」
空いている方の腕を掴んで引き寄せると、ネサラはペンを置いて従った。
腰のベルトに手を伸ばす。
「自分で脱ぐ」
と遮られそうになったが、譲る気はなかった。膝の上にネサラを横向きに座らせる。目の高さにある唇も色が薄い。抜き取ったベルトと上着をまとめて机の上に放り、白い背中を椎骨の触感に沿って撫で上げていく。不意にネサラが顔を寄せて、ティバーンの顔を縦横に走る傷の一部を舌先で舐めなぞった。
「どうした」
「ちょっと昔を思い出してね」
「…おまえがそんなこと言うなんて驚きだな」
お互いが王になりたてだった頃、若さに任せてネサラを抱いていた時期がある。悪いことだとは今にしてみても思わないが、むずがゆさはある。ふとした齟齬があって関係は終わりを迎えたが、いまここで再開することに何の躊躇も覚えはしない。
腰を抱きかかえる一方で頬に手を添え、唇を捉える。
「!」
数度ついばむように角度を変えて口づけを重ねると、ネサラは誘うようにティバーンの唇を舐めた。その舌をつかまえて口中に引きずり込んでしまう。
「ん……ん、っふ」
漏れ聞こえてくるネサラの吐息が耳に心地よい。深くまで舐めまさぐっていくにつれ、自分の体温が高くなっていくのがわかる。思う存分堪能し、ゆっくり顔を離すと、息の荒いネサラの口元から白い糸が伝うのが見えた。拭う指先は細い。
ネサラの頭が肩にもたれかかってくる。垂れ下がった両腕を首元に回し添えてくれたらいいのに、と少しだけ期待した。
「おまえもベグニオンに行くんだろ?」
「……ああ」
ネサラの顔は見えない。耳元で小さく囁く声を聞きながら、ティバーンはネサラの背にへばりついたままだった呪符に手をかけた。