言葉に嘘はなかった。
しばらく会ってなかったことはスクリミル自身もよくわかっていることだ。何を我慢し続けたかなど言うまでもない。
「だからお前の根城までわざわざ出向いてったんだぞ。この俺が。個人的に。時間を作って」
「俺とて無為に城を抜け出したわけではない…!」
長い空白時間の埋め合わせになるともわからなかったが、きれいな贈り物は無駄にはなるまい。そう思い立って海に向かったのは、ネサラをこの場によこした猫がよく知っている。だからこそネサラに海に行くよう教えたのだろう。
「ま、俺のためだってんなら責めることもない……あ、これうまい」
「そうか」
二人はしっかりと服を着込んで、海岸からほど近い村に場を移していた。
触るだけ、というのも本心からだ。好きなだけ触り通して、控えめな手つきで撫でられて、少し調子に乗ったきらいはあるが、お互い中には踏み込まなかった。
しかし、珍しく空腹を抱えていたネサラの腹の虫が鳴かなければ、おそらく最後まで致していただろうとも思う。元来ラグズは空気に乗せられやすいものだーー慌てて食事を切り出すスクリミルの顔は忘れがたい。
結果、大きめの石に木の板が載せられているだけの簡素な長椅子に並んで座って、昼食とも夕食ともつかない中途半端な時間の食事をとっている。
ネサラは湯気を立てる貝殻に唇を寄せ、その肉から溢れる汁をすすって上機嫌になる。その仕草にスクリミルが顔を背けてしまったのは、仕方のないことかもしれない。
すぐそばで火を起こして貝や魚を焼いているのは、村にある食事処を家族で回している虎の主人だ。言葉はかたことながらも、物珍しい鳥翼と獅子の客のためにと張り切って新しい食料まで調達しに行ってくれた。
白く輝く貝肉を一口に頬張り、唇の間から熱気をこぼしながら、ネサラはその味を褒める。
「はふ、やっぱり飯は作りたてが一番だ」
「俺も携帯食料なぞは好かん」
スクリミルの方も、皮の表面に脂のにじむ焼き魚を頭ごと噛み砕いている。
窓の外からは小さな頭が幾つも覗き込んでいて、物珍しげな眼差しを全身で受け止めることになる。王都で出歩く分には慣れたものだが、こういった辺境の村ではいまだにネサラは好奇の的だ。
「キルヴァスは島国だな?魚はよく食べたのか」
「ん?そうだな…どっかの国の漁業船を襲うこともままあるし…そっから頂戴した網を使って狩ることもあった」
「船を持たぬ海賊、か」
「懐かしい呼び名だね。だがもうあの島に国はない。鷹を突き動かした情動にも折り合いがついたし、鴉を慰める豊かな土地も手に入った。……はやいとこ廃れてくれるといいんだが」
「何を他人事のように」
女将がこしらえてくれた羹を受け取って、冷ますように息を吹きかける。確かめるように唇の先でついばむが、やはりかなりの温度のようだ。
「そうだな…海賊行為を指示してた二人、片っぽは今をときめく鳥翼の王だし、もう片方はここで安逸を貪っている。過去のことになるには、まだまだ時が必要だな。ああ、ありがとうご主人」
碗を横に置いてしまったネサラに、焼き上げたばかりの魚が差し出される。ネサラはスクリミルとは違って骨ごと飲み込む強靭な喉を持たないので、腹の身に歯を立てる。ぱり、と軽快な音がして皮が破れて脂が漏れた。
「でもな、知ってるか?海にいて船を沈めるのは海賊ばかりじゃない。全部が全部俺たちのせいにされるのは、理屈に合わない」
「何がいると言うのだ」
ネサラなどのあずかり知らぬところで、嵐に揉まれた船舶は波間に煽られ閉じ込められて沈んでゆく。あるいは風を読めずに見失った鷹も鴉も奪われていく。それらを指して、一部のものは秘かに語らった。果たして何の仕業であるのか。
「悪魔さ」
べきっという音がした。
へし折られた二枚貝の貝殻が落ちていく。
「……そんなに驚くことかね」
「あんたの口からそんな言葉が出ようとは」
「はン、長いこと呪いなんだか誓約なんだか、非現実的なものに振り回されてきたのがこの身だぜ。悪魔くらい呼んだっておかしかないだろ」
放っておいた羹に手をかざす、湯気はずいぶん減った。持っても熱くはない。
口に含むと絶妙な塩味と旨味が広がって、一層の食欲をそそる。具は幾種かの根菜と白身魚の練り物。
「『汚れた闇の翼を持つ悪魔の鳥!』」
「っ!?」
突然の言葉に、噛み合わせを間違えて何もない奥歯同士を打ち付けあってしまう。がち、と不快な音が響いた。
「それは」
ネサラとスクリミルが初めて共に戦った日。
雪の降る日だった。
「忘れようとも忘れられん」
敵将たる黄金の鎧の騎士は、とうに正気を失っていて、その発言が誰のものであるかを知るすべはなかった。彼の口から迸った、ただの【半獣】に向ける憎悪とはまた違った類の侮蔑と怨讐の念。
「俺はあれを聞いてあんたを気にかけねばと思った」
「そこは蔑却を深めるべき場じゃないのかね」
「結局本当の意味がわかったのは全てが終わった後だったが、正の使徒側に、あんたを特別視する相手がいることをあの時悟った。あれらは俺のことをただの汚らわしい半獣の一体だとしか見ていなかった。だが、あの巫女や皇帝、そしてあんたに対して、奴らは違っていたのだ」
使徒たちを動かす立場にあった元老院議員たち。彼らとネサラとの間に結ばれた浅からぬ因縁は、使徒たちにも影響を及ぼしていたのだろうか。
「俺は悪魔と呼ばれようがかまわない」
飲み下したはずの、粘り気のある芋の香りが口内に絡みつく。
「どうせなら海の悪魔だったらよかったのにな。飲み込まれていった鴉たちにも道が示せたのに」
あたたかな食事も床も彼らには与えられない。
ようやく鴉が手にした誇らしい森も、彼らには届かない。
「確かにあんたは悪魔のような男なのに、悪魔そのものには程遠い」
「……そうかい」
「始めの頃こそ忌々しいだけの男だったが、意外なところで優しい」
「どいつもこいつも、そんなに俺は無差別に非情に見えるかね…あ、おいスクリミル、頬」
「お?」
ふと見たスクリミルの口元には魚の脂やらでべとべとで、挙句頬には食べ散らかしたかすがへばりついていた。
「ここと…あと焦げも」
こちらを向かせ、親指で取り去ってやる。べたつく指の腹を、ネサラは思わず自分の唇で拭った。
スクリミルは慌てて手の甲で自分の口周りを乱暴に擦っている。対処が遅い。
「獣牙の食事作法に口出しはしないが、さすがにこういうのはどうかと思うね」
「やはり悪魔は悪魔か…」
「なんだと?」
「聞かなかったことにしてくれ」
スクリミルは体ごとネサラから背けて頭を抱え込んでしまったようだ。
残された貝に手を伸ばしながら、さりげなく翼を広げてその腕を撫でる。
ネサラが優しくする相手。鷺や子供に限った話ではない。
どれだけ御託を並べても、結局は動かされる心ひとつだ。
外ではきゃあきゃあとはしゃぐ子供の声が響いている。
一通りの食事を終え、休憩まで済ませた二人は支払いをし、挨拶にと手を差し出した。
「まタ、イつでもきテくれ」
がっしりと握り返した店の主人は、不器用な言葉遣いながらもそう言って笑った。女将もその奥で笑顔を見せている。村を出るまでにも、複数の子供に手を振られた。
村から王都の方向へと足を向けながら、ネサラは後背を振り向いて「まずいな」と呟く。
「どうした?」
太陽は西へ西へと傾きを深めてゆく。一面が橙色に染まっている。
「歩きでは日が暮れるまでに王都につけるかどうか」
「飛んで帰りたいか」
「できれば」
スクリミルは対応に迷って右手を揺らせた。一緒にネサラの左手も揺れる。
繊細さとは程遠いなりをしながら離れ難そうに指の間をなぜるのがくすぐったい。
「…しかたがない。俺も駆けて帰ろうーー俺の部屋で待っていてくれ、これも頼めるか」
左手に持っていた海から取り上げた薄桃の枝を差し出す。「わかった」とネサラはそっと受け取り、柔らかく抱く。
翼を広げたネサラは、困ってスクリミルを見た。
「手…離してくれないと」
「うむ」
そう返事をしながら、彼はネサラの手を持ち上げて、口に寄せる。親指を唇の先で甘く挟んで、小さく舐めた。
「スクリーー」
呼びかけが終わる前に、スクリミルは手を押し出すように離した。体勢を崩して後退った隙に、彼は背を丸めてその外郭を光に溶かす。赤い毛並みが光の中から生まれ出て、一頭の獅子を形作る。
「…気の早いことだ」
応えに代えて低く唸ると、彼は即座に地を蹴って駆け出した。ネサラは苦笑しながら樹海の上へと飛び出す。木々の間を縫うように動くのも苦手ではないが、気が晴れない。上空を一気に駆け抜けたほうが性に合うし、何より速い。
遠くに見える強固な城壁に向かってネサラは風に乗る。
化身せずとも、スクリミルよりも先には到着するだろう。獣牙の部下らに礼を言い、それからどうしようか。どうやって獅子の王を迎え入れるか。
ネサラは簡素ながらも美しい文様の浮かし彫られた長椅子で、うつ伏せに寝転びながらスクリミルを待っていた。
水浴びまで済ませてしまった彼は、塩水で調子の悪くなってしまった服を鴉の下官に任せて、柔らかくて軽い布を身にまとっているのみである。
薄桃の枝は、つるつるとした部分とざらざらした部分とが入り混じっていて、スクリミルが言う加工は、おそらく表面すべてを滑らかにすることを指すのだろう。きっときれいに光るんだ、想像してネサラは思わず頬を緩める。
「…なんて格好をしているんだ」
「あ、遅かったな」
「水を浴びてきたーー海水できしんでは、あんたが嫌がるだろうと思ってな」
「意外と察しがいい」
ネサラは起き上がり、海の枝を脇に置いてスクリミルを招くように腕を伸ばす。その動きに合わせて体を覆っていた布地がめくれ、さらりと床に落ちてしまった。
「ネサラ」
「はやく」
スクリミルが拾い上げたそれは獣牙の寝間着などに使う簡素な服で、袖もついた上下一続きの長衣だった。色と大きさこそ違えど作り自体はスクリミル自身がいま着ているものと同様だ。しかし、この長衣は毛皮としてネサラの化身の力と馴染ませたことのないものなので、翼を透かして着こなすことができず、本来の役目をこなせない。
衣を広げたスクリミルは、腕を上げたままのネサラの脇の下から翼の根元の下側を通り、胸元から下半身まで覆うように巻いてから、腰と腿とに手を差し込んで一息に抱き上げた。
ネサラは笑って、スクリミルが気を回したという赤い頭髪に指を入れる。
「まだちょっと湿ってる」
「これでも急いだのでな」
「風邪なんかひくんじゃないぞ」
「心配無用だ」
軽々とネサラを寝台まで運んでその体を下ろすと、スクリミルは慣れた様子でネサラに覆いかぶさる。
「あっ待て」
「なんだ」
擦り付けられた頬を押し返すように手をかざすと、不機嫌そうな声が聞こえる。
「逆だ、逆」
「ぎゃく?」
「お前が下、俺が上」
「なんだと!?」
人差し指で相手と自分を交互に示してから上下に数回動かす。不穏な仕草に、スクリミルの抗議の声がひときわ大きくなった。
「あ、いや、役割は今まで通りでいいんだけど、……昼の続きを」
「……む。そういうことか。なるほどな」
スクリミルはさっと身を離してネサラのすぐ横に身を沈める。「これでいいのか」と言いながらネサラの腰を抱こうとし、ネサラは手早く前身頃を合わせる紐を取り去って放り投げる。
大きく広げた胸元に、己の薄い胸板をくっつけるように身を寄せて、はだけた太ももの上に膝から乗り上げる。
「どこからにする?」
「どこからもなにも」
空いた手でスクリミルはネサラの顎を捉える。
「!」
「触れるだけなどもうごめんだ」
「…ふ」
笑んだ唇に、獰猛さを湛えた唇が押し付けられ、指と舌とでこじ開けられる。ねじ込まれた舌筋はネサラの口中を一巡りするように回って、追いすがる動きを見せたネサラを捕まえる。
「ん、…ふ、っは…」
甘く、互いから絞り取るように舌を絡ませ合うその下で、ネサラの手はスクリミルの中心へと伸ばされる。優しく触れてつついて揺する。薄目で反応を伺えば、細められた瞼の隙間から覗いた黄金とぶつかり合う。
「どうする気だ…?」
糸を引きながら唇を離し、顎や頬を伝う唾液を舐めとり合いながら、スクリミルは小さく尋ねる。
「どうされたい?」
「聞かねばわからぬか」
「教えてくれなきゃ、違うことするぜ」
舌先で上唇を舐めながら答えると、獅子は「それも魅力的だ」と言いながらネサラの腰から更に下へと手を滑らせる。
「が、やはり共に快くなりたいな」
「それは俺も」
ネサラは腰をひねって、背後に無造作に置かれていたはずの枕の下に手を入れる。取り出したのは小さな瓶だ。中身は香油。待っている時間に思いついて用意したものだ。
蓋を開け、とろりと腿の上に垂らす。広がる香りと、冷ややかな液体がゆっくり伝い落ちてゆく感触。
「うまそうな匂いだ」
「だろう?」
指ですくって、スクリミルの張り詰めた胸に擦り付け始める。大きな手に瓶を握らせて、ネサラは上から下から鍛え上げられた胸筋を撫で揉みしてゆく。
「ネサラ、」
「ま、俺の後ろは頼んだぜ」
「あんたは何を」
華やかな芳しさを吸い込み堪能しながら、ネサラはスクリミルの左右の胸の間の筋に指を走らせ、立ち上がった突起に油を塗り込み、弾いたり、周囲をなぞったり。平らな箇所などない。どこも柔らかく弧を描いている。固いのに柔らかい、不思議なものだ。直接触れていない部位までもが反動で揺れる。
スクリミルがたまらず漏らした嘆息を、奪うように口付ける。
見開かれた眼光にぞくぞくして勢いをつけて押し出せば、案外簡単に巨体ごと後ろに倒れこんでしまった。
呼吸を早めるばかりの相手を、ネサラは上から覗き込んで触れるばかりの接吻と胸への刺激を途切れさせることなく続けてゆく。
「……気持ちいい?」
答えはない。ただ震える眼差しと唇がその胸中を如実に物語っている。
「…俺のことも気持ちよくさせろよ」
頑丈な腿にまたがったままの下半身を少し揺さぶって示すと、スクリミルは眉をひそめて「悪魔か、」と囁くが、聞こえぬふりで膝を押し上げて刺激を送る。
意地の悪い表情をしているだろうことは自分でもわかっている。ネサラ自身は楽しくてたまらないのだ。そしてその気持ちこそがネサラの快感の扉を叩いている。体の芯からじわじわと広がってゆく、もっともっとと駆り立てる。
数度口をぱくつかせてから、スクリミルはどう観念したものか、瓶を取り直して、ネサラの大腿さらにその向こうへと手を伸ばしたのであった。