海と悪魔

 白砂の海岸線を視野の遠く向こう側に捉える。
 ガリアの国土は見渡す限りの樹海で、その奥にうごめく人影を察知はするものの、狩りをするつもりなど微塵もないネサラはすべてを看過する。
 探している色はただの一つ。それが見当たらない限りは、気にとめる理由も必要もない。
 翼を広げる空は広くて高い。夏を目前に控えた大気は地の果ても照らす日の光によって十分に熱せられており、人の肌に汗を滲ませることだろう。もっとも今のネサラの体表は黒い羽毛に覆われており、人の体とは作りを違えているので想像の域を出ない。
 化身した鴉の飛翔は疾い。すぐに砂浜を直接眼下に収めることになる。身を任せる気流を乗り換え、ネサラは大きく旋回しながら目的の相手を探して方々に視線を走らせた。
 一面の白い砂が海と樹海の境界を示すように細長く続いている。人の姿は見当たらない。ここにいる、と聞いたから文字通り飛んできたのに、入れ違いでもしたのだろうか。幾分かの落胆の気持ちを抱えながら、ネサラは翼をひねる。瞬間視野に開けた深く水を湛えた青色は、空の持ち得ぬ奥底を隠し持っている。あの中に閉じ込められた魚も貝も、すべての命はネサラと同じように青に吸い寄せられて生きている。空に生きる鳥翼の中でも、稀に海に吸い寄せられるように命を飲まれる者がいるが、その肉体の末期も魂の行先も、ネサラは知らない。
 海面は波立ち、浜辺を行ったり来たりしながら、何かを引き込むように揺らいでいる。ネサラは少し喉を震わせた。この国では聞き得ない鳴き声も、吸い込まれてしまうだろうか。
 砂浜に目を戻すと、異物がネサラの注意を引いた。それは動いているーー鴉の目も捕食者の目だ、対象が動けば動くほど、捕捉する確率が上がる。突然視界に飛び込んできたそれは、ネサラが思う通りの色をしていた。高度を落としながら近づけば、人の姿で大きく手を振っているのが良く見える。
 身にまとっていた力を緩め、手足の先から散らしてゆくと、それに沿うように羽毛が光を放ちながら解けてゆく。降り立った砂地はネサラのつま先を受けて崩れたが、少し沈んだだけで立ち歩きには支障もないようだ。形と感覚を変えた鼻腔が潮のにおいを受け止め直す。苦味のまじる癖の強いにおい。
「相変わらず目立つことだーーそのたてがみ」
 ネサラは今度は人の目で相手を見つめた。真っ赤な髪は常と等しく無造作にうねりながら広がって頭部全体を彩っているが、普段よりはずいぶん大人しい印象だ。その代わり、ぽたぽたと髪の束の先から、あるいは額や頬を伝って水滴が垂れ落ちてせわしない。
「素潜りでもしてたのか?」
「ああ」
「どうりで見つからなかったわけだ」
 ときには川辺で魚を狩る鳥翼の目は、水の中を見通せないというわけでもないのだが、河川の水流と違って海原の波はその動き自体が捕捉の対象になってしまう。羽根を落ち着かせ、見ることに集中できるような場所でもない。
「…ところでスクリミル、服は」
 ネサラは四方に視線を走らせる。それは服を探すため、というよりも、スクリミルから目をそらすためという意味合いの方が大きい。スクリミルの艶のある薄茶の肌は、内包する筋肉の形通りの曲線を表し、直接の太陽光と、海からの反射光を受けて、存分に輝いて見える。問題は、その肉体が一糸も纏わぬ状況だ、ということ。
「すぐそこ、樹海の方に置いてある。当分は誰も近付かんさ」
「おまえの縄張りだってことね…」
 跳ねる指先を抑えるように、ネサラは拳を握りこんだ。
 その手触りを知っていた。掌に余る弾力が恋しい。その熱も、豊かさも。
「ところで、何か急用か?必要があれば呼べとは言い置いたが、あんたが遣われるような事態か?」
「いいや?」
 王は海にいると伝えてくれた猫にはいつも苦労をかけている。今回もご丁寧に地図まで示してくれた。ネサラの方とて、火急の案件があったわけではなく、ただ時間が空いたので食事でもどうかと思っただけだったのだが。
『あなたが城に来たことくらいあいつは鼻で難なく気づくし、追い払ったと知れれば後が怖い』
 そう言って笑う顔からは微塵のこだわりも感じられないが、ネサラとスクリミルがともにあるために、彼はずいぶんと心を砕いてくれているようだった。
「というわけで、せっかくの機会だ。俺もガリアの海とやらを経験しておこうと思ってね」
「ふむ。それではあんたも潜るか?」
「それは遠慮しておきたいね」
「なぜだ?潜らずして何を経験するというのだ」
 尋ねながら、スクリミルは地肌に張り付く毛髪をかき分け、絞るように動かしていく。塊になって落ちていった 水は足元の砂にしみをつくったが、あっと言う間に消えていってしまう。木陰もない海浜はじりじりと太陽に灼かれている。濡れていたスクリミルの体表も、どんどん乾いていく。
「泳ぐ鳥を見たことがあるか?」
「なんだ、泳げぬのか」
 歯に衣着せぬ物言いにたまらず眉をひそめるが、口では「まあね」と肯定を返す。
「なら、好きにするがいい。俺はもう少し潜ってくる」
「…え?」
 言うや、スクリミルはネサラの反応も待たずに波間に歩を進めていく。
 足首、脹脛、膝裏、腿ーー褐色の力強い脚と、やがては胴体までもがずんずん海の中へと沈んでいく様に、ネサラは思わず息を飲んだ。
 ざぶ、と勢いをつけて視界から赤色が消える。
 棒立ちになったネサラの横面から風が吹き付け、翼がそよぐ。スクリミルが消えた場所には最初から何物もなかったかのように、揺れる海水だけが満たされていた。
「……飯」
 気が動転しているのかもしれない。口をついて出てきた独り言に、ネサラは見る者もいないのに肩をすくめた。食事に誘う心算がまったく無駄になってしまった。しかし、そんなものは隠れ蓑でしかない。
 握ったままだった手指を解いて密やかに空をなぞる。首、肩、二の腕。艶やかで、少しざらついた肌を想起する。硬くて確かな肘。小指に向かって伸びる尺骨。
 厚くて、皺も磨り減ったかのような平らな掌。骨太な指。
 そこまで辿って、ネサラの腕は力を落とす。腿の横に垂れ揺れる。
 ネサラは足を波際に向けた。
 薄く広く伸びてきた白い波に、靴の底が閉じ込められる。じわりと水気が染み入るのを感じ取った。波はすぐに引いていったが、この足に取り残された水は海には帰れない。ざ、と音を立てながら広がった波を、今度は腰を丸めて指先で触れる。
 そのままゆっくりと腰を落とし、しゃがみこむ体勢で手首近くまで水に埋める。
 ぬるさと冷たさの間のような温度だ、全身で浸かるには勇気がいるくらいの温度。
「ぶは」
 聞こえた声に顔を上げると、少し離れた海面から赤い頭が生えている。
 顔だけ出して大仰に呼吸するスクリミルは、やがてネサラを振り向いた。
「潜る気にでもなったか?」
「まさか」
「ならせめて足くらい浸してゆけばいい。そこは暑かろう、気持ちが良いぞ」
 そうしてまた潜って行ってしまった。
 ずいぶん長い間息が続くようだ、まったく獣牙の肉体にはしばしば驚かせられる。
 手を引き上げ水滴をふるい落としながら、ネサラは目を眇めて空を見遣る。視界に太陽そのものは映りこまなかったが、十分に眩しい。服越しに肩や背中を温められて、じっとしていると汗がにじむ。
 一息ついて、ネサラは少し海から離れた。砂上に座り込み、靴を脱ぎ払おうとすると、落ち着けた尻に砂の熱が伝わる。手を滑らせると、大気以上に熱せられているようだ。それでも火傷しそうなほどではないのは、季節が夏本番ではないからだろうか。
 晒した素足をそっと下ろす。熱気が包み込む、一種の心地よさ。
 まるで彼の素肌だ。
 かかとで砂を押し出しても形に沿って流れていくだけで明確な道筋は出来上がらない。両足分脱ぎ去り横に除けて立ち上がる。乾いた熱気をはらんだ砂はさらさらと動いていく。
 伸びて縮んでを繰り返す波に足を差し出す。受けたばかりの砂の熱を奪い去り、ネサラの足は一瞬の清涼に包まれた。
 裾が濡れないように少し捲り上げ、そろそろと歩き出してみる。
沖側へと足を向けるが数歩のうちに波が寄るたびにくるぶしまで埋もれてしまって、足を止める。
 潮の遠鳴りが耳に優しい。厳しい海流の最中に位置するキルヴァスではついぞ聞かなかった音調だ。
 風も波も穏やかに見えた。だけどそれは側面でしかない。
 海も空もいくつもの命を丸呑みにしてしまう。
 どれほどの船を沈めたことだろう。
 過去の話だ、だけど落ちていったものはずっとそこにある。
 積荷も乗組員も。ときにはこちらの手のものも。
「…スクリミル」
 彼が最初に消えた波間も、次いで顔をのぞかせた場所も、とうに見失ってしまった。
「スクリミル!」
 声など届くはずもない。飲み込まれもせぬうちに溶けて消えてしまう、無力なものだ。
 ざぶ。波に逆らうように足が動く。
 ざぶざぶ。衣服に海水が染み込んでいく。
 ざぶざぶざぶ。周辺を取り囲む水の塊はあまりに重い。
 腰元まで沈んでしまうと、ネサラの蠢きでは波の動きを覆せない。
「スク、!」
 開いた口から転がり出たのは、名前の一端と、予期せぬくしゃみ。一回では止まらず、数回続く。
 背筋が凍りつくような感覚、ネサラは肩からぶるりと震えた。
 冷たさしか感じない。
 体温が奪われてしまう。
 脛に腿にと張り付く布地がその様相に拍車をかけるようで。
「……っ」
 水に浸ってもいない二の腕を摩る。はやくここから出なければ。だけど足は動かない。翼も重い。
「…あ」
 波の向こうに赤色が見えた気がした。錯覚だろうか。光の反射か。
 すぐに見えなくなってしまったその色を探してネサラの視線は彷徨う。
 大きい波が押し寄せて、ネサラは体を揺らがせる。膝を折ってはいけない。腰を落としてはいけない。引き戻す力に負けて、思わず足が出た。深みに向かってゆく。ふんばれない。
「何をしている!?」
 耳に認めた声に腹が温かくなるが、顔を上げられない、本物かわからない。
「翼まで浸ってしまっているではないか!」
 力強く腕を掴まれる。その手がまとった水が袖にしみていく、冷たいままだ。体温ではない。
「……ちょっと…出来心で」
 ようやく首をひねると、本物の赤色だ、目元が緩んでしまう。
「動けないから、助けてくれ」
 即座にネサラの腰を抱えたスクリミルは、波の抵抗などまるでないかのように浜に上がった。波から十分に離れたところにその体を下ろして座らせる。
「慣れぬことをするな!俺たち獣牙とて化身しては水辺に近づきたくもないーーそれは体毛に水がしみて体温を奪うからだ。鳥翼だって同じだろう?まったくあんたは大事な翼を!」
 珍しく怒ったような調子でネサラに文句をつけるスクリミルは、どっぷりと濡れた服を脱がせ、絞ってから砂の上に広げる。
「じきに乾く、少しの辛抱だ」
 それからスクリミルは樹海の方へと踏み入ってしまった。
 それを見送ってから、ネサラは己の下半身を覆う下着に目をやり、全く濡れ切ってしまっていることを確認すると、自ら脱ぎ去ってしまった。砂浜は十分に温かく、さっきまでの冷たさが嘘のようだ。
 程なく戻ってきたスクリミルはいつもの服を一揃え抱えていた。そして、ネサラが自分と同じように全くの裸体になってしまっているのを見下ろして、困ったように眉根を落とした。
「なんだ気を使ってやったのに」
「誰もこないんだろ?だったらいいじゃないか」
 気安く笑うと、少し光沢のある、彼の上着を差し出された。受け取り難くて迷っていると、胸から腿を覆うようにかぶせられる。
「あんたみたいなのは、日に当たり過ぎるのも問題だろうからな」
「鷺じゃあるまいに、そんな心配するなよ」
「大して変わらん」
 言い切られてしまっては「そうかよ」と答えるほかない。
 そして、普段は足元を覆っている黒い服を取り出して砂の上に広げる。
「熱かろうからここに座るといい」
「え?いや…それは」
「腰でも抜けたのか」
 言うが早いか、スクリミルはすぐにネサラを抱き上げてその下に服を滑らせた。
「……」
「どうした?」
 軽い体を下ろして離れていこうとする手を、ネサラはとっさに掴む。
 乾いていて温かい。記憶と期待と寸分の違いもない。
 指と掌をたどり、尺骨を遡り、肘に触れ、張りのある二の腕を撫で、肩、三角筋、太い首。獣の耳。
 全てがあたたかい。
「ネサラ、すまんが」
 スクリミルの視線が少し泳いでいる。すぐに手を離して、ネサラも小さく謝る。
「……落し物をした。もう少しだけ待っててくれ」
 背を向けてまた海に入っていこうとするスクリミルはやはりネサラの返事を待たない。
 ただ、先ほどまでとは異なることに、スクリミルは頭までは潜ってしまわずに、うろうろとネサラが埋もれていたあたりを泳ぎ回っているようだった。
 落し物、といったが何も纏わずに潜水を楽しんでいたのではなかったか。何を落とすものがあるというのだ。彼は装飾品を好まない。ネサラのように耳飾りをつけている様子もない。
 浮き沈みする赤い頭を遠くに見ながら、ネサラは手を差しのばす。
 触れたばかりの獅子の耳。少し濡れていた毛並み。
 その手から逃れるように、スクリミルは頭を水中に沈めた。ネサラはとっさに手を引いて身を乗り出す。
 すぐに頭だけでなく体も水面に出て、水滴をばらまきながらスクリミルはネサラの方にと歩を向けた。
 隣に腰を下ろし、「ほら」と差し出したものは。
「これ…?」
「加工すればもっときれいになる」
 小さな鹿の角のような、あるいは木の枝のような。薄桃色の石だろうか。太陽光をちらちらと反射してつややかに輝いて見える。
「海の中にこんなものがあるのか?」
「探しどころを間違えなければ、すぐに見つかる。詳しいことは知らんが、城に戻ったら誰か教えてくれるだろう」
 一切の説明を放擲するスクリミルの態度はいっそ清々しい。
「あんたへの贈り物だ」
「え?」
「ただ加工が終わるまでいま少し時間をもらうぞ。どんな装身具にするのがよいか、見当も付かんな。髪飾りがよいか、それとも指輪にでもするか」
 暗い青なる頭髪の各所に当てて薄桃色をためつすがめつしながらスクリミルは問いかける。
「うむ、なかなかよいな。髪留めにでもしよう。青い髪によく映える。だが赤い方がよかったかもしれんな…あんたの耳飾りは赤い。だが赤いのはもっとちゃんと準備して深くまでもぐらねば見当たらん。次に期待しておいてくれ」
 ネサラの耳朶をつつきながら、勝手なことを言い続ける。
「おい、そんなきれいなものを俺にくれてどうする」
「なに簡単なことだ、俺はきれいなものに囲まれてるあんたが一等好きだからな」
「は…ぁ?」
「相手があんたじゃなかったら、貝かなにか引き上げてこじ開けて食ってたところだが、」
 そういえば飯、という横槍が脳裏をよぎったが、丹念に追い払う。
「格好つけさせてくれ。あんたの趣味には合わんかもしれんがな」
「そんなことは…」
 ネサラはスクリミルの手元に目を落とす。ネサラの身の回りの宝具は派手な色合いのものが多かった。誰の趣味かは知らないが、キルヴァスで受け継がれたものも、フェニキスにあったものも。ベグニオンの貴族が求めたものも、その船から奪い取ったものも。そのどれとも違う色。柔らかな色などネサラにとってセリノス以外に思い当たらないが、それとも違う。森の色ではない。ましてや空の色でも。
「俺の趣味なんて、大したものじゃない。…お前が俺に似合うと思ったんなら、それでいい」
 恥ずかしさがこみ上げてきて、ネサラはスクリミルの衣服ごと膝を抱え込む。草のにおいがする。潮のにおいよりよほど快い。そしてもっと好ましい、スクリミルのにおい。
「そうだ、あんたは常に俺のそばにいるべきだな」
「え?」
「考えてもみろ、俺なぞ全身赤いようなものだ!あんたをよりよく見せてやれるだろう」
 快活に笑っているスクリミルに「小さな装身具とでかい図体を並べて語るな」などと水を差すようなことをネサラは言えない。
 というよりも。
「どれだけそばにいればいい?」
 陽気なだけの空気を取り払うように、ネサラは一気にスクリミルの頬に自らの頬を寄せる。
「む?」
 身を引くことを知らないスクリミルの上体にすがりつくように腕を回し、顎に口付ける。毛先を舐めると少し塩辛い味がした。
「ネサラ、待て」
「なぜ」
 慌てたような声に、笑みが収まらない。肩と胸、腹。腕、太腿。乾いた体同士を摺り寄せ、楽しんでいると、やがてじっとりとスクリミルの体表を汗が覆い始める。
「ここではまずい」
「人は来ないだろう」
「そこは問題ではない!」
 ーー見られることは問題じゃないのか。
 薄々感づいていたが、言い切られて違う笑みが口端をよぎる。
「じゃあ何がいけないんだ?」
「あ、あんたの体に障る」
 しどろもどろの答えにネサラは瞬きで答える。
「……俺のことは気にしなくてもいいぜ」
「何てことを!いうのだ!」
 語気が荒げられ、このままでは理不尽な論展開で怒られるのが目に見えている。そうなる前にネサラは方向性を変えようと考え、寄りかかっていた体を起こして目線を合わせる。
「快いんだ。太陽は熱いし海は冷たい。でもあんたの体はどっちでもない。あたたかくて気持ちがいい。だからもっと触っていたい」
「な…」
 スクリミルの表情が歪む。動揺がすぐ顔に現れるのは己の主に据えるには不安要素だが、寄り添って語らう相手としては不足でもない。
 両手を揃えて太腿に沿わせると、面白いように筋が凝り固まって盛り上がる。揉み動かした分だけスクリミルの唇がわなないた。
「触るだけなら…とか」
「さわ、る」
 汗のにおいが鼻をくすぐる。それから立ちのぼりかけている別のにおいも。
「ずっと我慢してたんだ」
 

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