楽園のはしっこ

 楕円の寝座は想像よりも柔らかく、花の香りさえ漂った。
 ティバーンが広げた薄手の毛布の中で、向かい合って身を寄せ合い背を丸める。
「寒くないか?」
「全然」
 夜は日中と比べれば格段に冷える。洞穴内部は外より少しは暖かいはずだが、寝座の中でティバーンはネサラの体をしっかり抱きしめた。触れた先から体温が伝わってきて、寒くなりようがない。
 目をつむっていると、慮外の手が服の上から背や脇腹、太ももなどを撫で回っていった。
「……そういうつもりがあるのか?」
「いや?」
「だったら変な真似はやめてくれ」
「お前の方からそういうつもりになってくれりゃいいなって思ったんだがな」
 返す言葉もなく呆れていると、ティバーンは怪しげな位置から手をネサラの髪に移し、包むように触れた。
「好きな場所で好きな奴と好きなもの食って飲んで、これ以上の幸せはねえとも思ったが、この上好きなこともできたらいうことはねえなと考え直してな」
 幸せ、とネサラは口の中で反芻する。
「だがさすがにわがままだよな、我慢するって」
 そう笑い声で告げるティバーンのにおいを辿っても、別段情交を求めている様子ではない。
「俺が一緒でも幸せか?」
「……俺の話ちゃんと聞いてねえのか?」
「聞いてたが」
 あらぬ疑いに、ネサラは顔をしかめる。
「お前がいなきゃこうまで浮かれてねえよ」
「浮かれてたのか、あんた」
「…お前は本当に……そりゃちゃんと言ったことはなかったかもしれねえが、やることやっといて、まさかここまできて、その上知らねえ面し通すつもりなのか?」
「話の筋が見えない、眠いなら喋るのやめてとっとと寝たほうがいい」
「いいか、ネサラ。一回しか言わねえからよく聞けよ」
「はいはい」
 ティバーンが上体を起こしたのが、寝座の軋みとまとわる空気を通して伝わる。耳を澄ませたが聞こえるのはティバーンの呼吸音ばかりで甲斐がない。しかし、こみあげるあくびをかみ殺しもせず口を開けたその時だった。
「愛してる。だからともにいられて嬉しい」
「は?」
 随分と間抜けな返答をしたものだ。ネサラは慌てて口を押さえ、ティバーンの反応と、放たれた音の連なりの意図するところを探る。
「一回しか言わねえって言っただろ」
「……」
「何とか言え」
「聞いてる」
「おまえ」
 やることはやった。確かにそうだ。だけどそれでティバーンの情がこの身に移ることなど、考えてもいなかった。望んでもいない。そのための行為ではなかったはずだ。
「そう言ったことはなかったがさっきのだって俺の一世一代の大告白だぞ…」
「ティバーン、なんというか、気持ちはありがたいんだが」
「未来を誓うってそういうことじゃないのか?てっきり容れてもらえるもんだと…ああくそ、俺の独りよがりか!」
「!」
 ネサラはじわりと首から耳にかけて皮膚表面の温度が上がっていくのを感じた。
 重要な場で自分が何を言ったのか忘れてしまうほどおめでたくはない。
「あれは…そういう意味じゃ」
「だろうよ!お前にとっちゃ大した意味もないんだ、勝手に解釈して舞い上がって悪かったな!頭冷やしてくる」
「ま、待て!」
 毛布をはねのけて寝座を離れ、洞穴からすら飛び出していこうとするティバーンを、ネサラは慌てて引き止める。伸ばした手が行き当たった体を、とりあえずつかむ。肘の上あたりだろうか。
「嘘はない、本当に俺はあんたとの未来を誓える」
「だけどその気持ちがずれてるっていうんだろ!」
「……ずれてるかもしれないが、永劫をあんたと共にする覚悟はあるし、そのつもりでいた。ただ、そこに愛なんて言葉が出てくると思わなかっただけで…」
「やっぱり俺の独りよがりじゃねえか…」
「否定はできないな」
「…でも、俺もお前との未来を誓うし、これが愛だと思ってる」
 指先がネサラの頬を辿り、やがて唇に行き着くと、ついで同じ柔らかさがそこに触れた。そしてティバーンはネサラにのしかかるように寝座に身を移す。
 唇に続けて、頬や額、こめかみ、首筋、どこもかしこも脈略なくティバーンはネサラに口付けた。
「勝手な奴だ、あんたは」
 ティバーンの行動は時折突飛で、それを意図しているのか他意はないのか、ネサラにはしばしば判別がつかない。
「……俺の身勝手、認めてくれるか?」
「え?」
 途端、ティバーンの欲が溢れ出たようにネサラの感覚器官を刺激する。
「そういうつもりがないんじゃなかったのか」
「言葉の綾だ、見逃してくれ」
 言い訳がましく呟くティバーンは、答えも聞かずにネサラの衣服に手をかける。
 音もなく隙間から滑り込んだ手指が、素肌の上を縦横に撫で走っていく。服の上からでも十分に扇情的な手つきだったものが、直接触れることでより鋭敏な感覚をネサラに与えた。



 己を収めきってしまうと、ティバーンはネサラの額に浮かぶ汗を拭った。暗闇の中で正確な位置は見えていないだろうに、これまで体をつなぎ合わせた経験回数がものを言うのだろうか。
 胸を大きく上下させて呼吸しながら、ネサラはティバーンの手の動きを感じ取る。
「……幸せか?」
 ティバーンが撒き散らすにおいがどこか浮ついているようで、ネサラは答えを聞くのがすこし怖いと思いながらも確認せずにはいられなかった。
「当たり前だろ」
 変わらず調子の高い声と共に、唇が落とされる。くすぐったく思っていると、ティバーンは声を潜めてネサラの耳元で囁いた。
「全部捨ててでも、このままずっと二人で暮らせたらいいって思うくらいにな」
 ふ、と思わず鼻で笑った音が、思いのほかに大きく聞こえた。
「おかしいか?」
「そりゃね。あんたはそういう男じゃないだろ」
「じゃあどういう男なんだ?」
「っあ、動くな、」
 ネサラが止めても、ティバーンはゆっくり小さく出し入れする動きを続けている。
「……っ」
「なあ?」
 余裕げな声が癇に障る。
「あんたは…何にも捨てれやしないのさ」
「ほお?」
「両手が木の実でいっぱいでも、そのまま新しい木の実を取りに行く。万一取りこぼしたところで、それをうっかり拾っちまった奴ごと後で手に入れるんだ」
 ティバーンの反応はない。ネサラの奥にとどまるそれも、なんらの変化を感じさせなかった。緩やかに動いて、ネサラが焦れるのを待っているかのようですらある。
「一度手に入れたもんは絶対手放さない。そんなこと思いつきもしないんだろう」
 ティバーンがすこし大きく息を吸ったようなので、何を言われるか身構えて、く、と後ろを締め付けてしまった。別の警戒をも要するかと思いきや、結局何の言葉もなかったので、ネサラはまた口を開く。
「あんたはそういうわがままでっ」
 ネサラの息が一瞬止まった。ティバーンが突然ネサラの腰をえぐるように持ち上げて己を打ち付け始め、喉が開いて声が上ずる。少しずつ高められた情欲は当たり前のようにその衝動をも受け止めた。
「あ、身勝手で、んぅ、業突く、張り、っ……!」
 尋ねておきながら最後まで言わせないところなんか正にそうだ、と詰れもせずに、ネサラはティバーンの揺さぶりに合わせて喉を震わせる。
「聞いてる…ぜ、」
 耳に触れるティバーンの声。鼓動の高鳴りが増していく。その熱がひたすらに恋しい。
「っ…!っ、……ふ、」
 ネサラは手で口を塞いで嬌声を飲み込もうとした。親指の付け根を上下の歯列で喰むと、くぐもった声が口の中から鼻に抜け、耳へと響く。
 突き上げられる体は嫌悪の念を持たない。もうずっと知っていた。この心がどこにあるのかを。
 王の山で王の望みを享けている。胸を満たす喜びと、浅ましく飲み込まれる己への侮蔑。快楽を受け入れる本能、罪悪感、ティバーンへの心。それらがぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。何もかもとりこぼしたくはなかったが、ティバーンはその手を外そうとする。
「俺のこと、好きか?」
 ティバーンの問いかけは簡潔で、混沌を呈するネサラの頭の中にまでしっかり届いた。



 好きだと一言告げてやれればいい。
 きっとそれが望みの言葉だ。ティバーンにとっても、ネサラ自身にとっても。
 だがネサラの意識はとうにうやむやで、声帯の震えを制御するのも自らの意思ではままならなかった。



 目を覚ましたネサラは、寝座から敷き布も毛布も姿を消していることに気がついた。それから体にかけられた大きな緑色の上着を目にして、隣で眠ったはずの男が見当たらないことにも意識を伸ばした。
 そして晩の戯れを思い出し、汚れたものを洗いにでも行ったのだろうと憶測する。
 寝座に身を埋めたまま、ネサラは後ほど訪れるはずの山頂に思いを巡らせた。
 鷹の王の眠る場所。この世界には怪異が山ほどある、その中でこの山に王の魂の一つや二つ残っていたところで不思議はない。言い知れない背徳の念が徐々に増していく。
 物思いに耽ってしばらくぼんやりとしている間にティバーンが戻ってきていたらしく、
「まだ寝てるのか?」
と声をかけられた。
「…起きてる」
「じゃあ水汲んでくるから顔洗うなりして、木の実採ってきたから適当に胃に入れとけ」
「ん…」
 立ち上がって体を伸ばし、頭が重いような気がして、そういえば得体の知れない酒も飲んだんだったと思い出す。赤い布の上に、昨日の木の実と並べて置かれた果実を見つけて手に取る。みずみずしい酸味がよりはっきりとした覚醒を促した。
 隧道から出てきたティバーンに急き立てられるように身辺を整え、二人は昼前には山頂への路を登り始めた。
 空は晴れて明るく、風もなく穏やかで、感覚を狂わせるような気の乱れもない。
 そこは随分と平らかだった。
 草花もなくさらさらと砂が舞うのみだ。
 その場を前にしたティバーンは黙して瞑目し、これが報告か、とネサラは見守る。
 ネサラもネサラなりに、鷹の王たちに何か告げたものだろうか考えたが、ティバーンの邪魔をするのも気がひける。それで結局ただ側で何もせずにいるしかないのであった。
「ネサラ」
「ん?」
 呼ばれて顔を向けると、顎を掴んで持ち上げられ、力強く唇同士を押し付け合う格好になる。
 身を離しながらネサラが呆然としている一方で、ティバーンは「帰ろうぜ」などとのたまって翼を翻す。ネサラの腕を引いて。
「おい、待て、なんだ今の」
「報告だろ」
「おかしいと思うんだが」
「将来の誓いをわかりやすく示したってだけだ」
「鳥翼の未来についてじゃなかったのかっ?」
 振り返ったティバーンは、にやり、と表現するのが一番ふさわしい満面の笑みを浮かべていた。
「全部込みでに決まってんだろ?鷹の未来は鳥翼の未来、鳥翼の未来は俺とお前の未来だからな」
「……っ」
 ネサラは言葉を失ってしまう。が、すぐに自分を取り戻してティバーンを問い詰める姿勢に戻った。
「いや、そんなんじゃ丸め込まれないぞ…!?」
 ティバーンはつかんだネサラの腕をさらに引っ張って、またしても口づけを重ねる。
「あんた…」
「ごちゃごちゃいうなよ、全部非現実だ、ここは夢だ、だから俺の望みは叶ったんだ」
「はあ…?」
「それでいいんだ」
 静かな声が胸に痛い。本当にこの山を二度と訪わないつもりなのだろうか。移ろう季節ごとの輝きも王のための命も眠る魂も、捨ててしまうと言うのだろうか。いままでに行った報告も、その過去も、誓った未来も振り返る必要はないのだろうか。
「ここはいいところだ」
「そうだろ」
「また来たい気持ちはあるが…一人では適わないのが口惜しいな」
 次への望みを口にすれば、ティバーンは困ったような顔をする。
「春でも夏でも、いっそ冬でもいいかもしれないな。一番季節らしいところが見てみたい…そんな顔するなよ。あんたの覚悟を蔑ろにするようなこと言って悪かった」
 とってつけたように謝ると、拗ねの混じった眼差しが返ってくる。
「……何にも捨てられねえ男だって言うけどよ、お前が原因で捨てられねえもんだってたくさんあるんだ」
「へえ?例えば?」
「俺はもうコインを捨て置けない」
 ネサラは思わず笑ってしまう。この頑強な肉体を持ちながら、あの小さな輝きに思いを巡らせずにはいられないというのか。
「そうだな、じゃあまたーー今度一緒にキルヴァスに行こう」
「いいのか?」
「鴉の誇りの在処と所以を知って、捨てられなくなってしまえばいい」
「もとより捨てるつもりなんて、さらさらねえよ」
 同じものを見て心が沿うならそれに敵うものはない。
 記憶は常にこの身の内にある。
 抱えるものが何であれ、それを分かち合うことができたらいい。
 ティバーンの心も掌もずっと燃え盛る炎のようだ、盛りどころか端緒の到来すらまだなのに、彼が抱いている夏の有り様を彷彿とさせた。
  

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