王の山だと言った。王たる者のみが登る資格を得る。とは言うもののその実は力業もいいところで、山の周囲を取り囲む乱気流をいなしながら飛昇できるか、というのが本来の意味合いであるようだ。つまり、登れる者が王になるーー因果があべこべじゃないか。そう頭の中で批判しながら、山の頂にほど近い斜面に穿たれた洞穴に足を踏み入れ、ネサラはため息をつく。
「気に食わねえか?」
洞穴の主すなわち山の主は、そんなネサラの胸中を知りはしなかっただろうが、即座に耳聡い反応を示した。
「…この短時間でまだ何も判断できやしないさ」
洞の入り口は南向きに開いて日光を取り込んでいるため、穴内部の様子を十分に見てとることができる。が、一つ大きめの寝座が置かれているほかには、おそらくこの男が前回ここに来た時に持ち込み、そして残していったのであろう酒瓶や食べ散らかした獣の骨などが雑多に転がっているのみであった。しかしその上には砂埃が吹き込んで溜まっていて、随分長い間手が入れられてない様子が察された。
突き当たりにさらに奥へとつながる隧道があることに気がついたが、さすがにその向こうまでは日の光も届かず、詳細はわからない。
奥へと踏み込みながらまじまじと観察しているネサラに、ティバーンは入り口付近から声をかけた。
「食うもの探してくるから、休んでろ。元鴉王だからったって、鷹の山はこたえるだろう」
「俺はあんたのお荷物だっただけで疲れるはずないんだがね」
ネサラは言いながら、身の内に隠し込んでいた翼を外へと現した。ティバーンに抱えられて王山への道のりを味わったネサラは、その途中で己の翼がティバーンの飛翔の妨げになっていることに気がついて、自分からそっと翼をしまったのだ。ティバーンはいい顔はしなかったが、その後格段に速度が上がったのは事実であった。
ティバーンの力強い羽ばたきを目前にして、気流を掴むことはできても体力が続かないだろう、と他人事のように我が身に置き換えたが、落ち込むことでもない。いまの自分はもう王でもないのだから。
「じゃあ一緒に来るか?」
声音の調子が一段階上がったのを聞き止めて、ネサラは振り向く。逆光を受けてはいたものの、ティバーンの口元が笑みを形作っていることはなんとなくわかった。
「なんだ?いやに嬉しそうじゃないか」
「この山は俺の気に入りだ。お前に見せたいものがそれこそ山のようにある。それができるっていうんなら当然嬉しい」
「ふうん?まぁ、この穴ぐらで待ってろって言われるよりはマシかね」
皮肉でもなし、何もないこの空間に置いていかれるくらいなら、地理がわからずとも山を飛び回っていた方が少なくとも退屈はせずに済むだろう。
セリノスの王城で、ティバーンの誘い文句は簡潔だった。
「供にこい」
無論ネサラは驚いた。何しろネサラの職務は外交官であり、王の随伴や護衛は管轄外である。その通りに応えると、「王の山だからな」と返答があった。委細はわからないながらも王の山という名称に興味が湧いて、ティバーンの命を請けるに至ったのである。
それはフェニキスの北部にそびえる高山の一つで、岩がちながらも地形気候特有の、ネサラの見たこともないような動植物が随所に点在していた。
「春は花の雨が降るし」
ネサラを連れて高いところをゆったりと巡っていたティバーンは、豊かに実をつけた喬木を眼下に見つけると、すぐに高度を落として枝先に手を伸ばした。
「夏は身の詰まった果実が、秋には太った獣がたくさんだ」
それぞれの形容は情緒に雲泥の差があるが、なんにせよティバーンが季節を問わずにこの場を訪れ、愛でているこに疑いの余地はない。
春と夏の合間にあたるいまの時期は、そこここに咲き遅れた花の姿と、気の早い木の実が散見される。それでも王ひとりの手には余るであろう豊かさに思われた。中天を少し過ぎた太陽は幾分か気が急いているようで、辺りはまるで夏のような明るさだ。
「…冬は?」
「冬は来ねえな。寒いから」
ティバーンはひょいひょい目に付く果実をもいでいく。遅れて降りてきたネサラは隣で手伝う間もなく眺めていたが、不意に取りこぼした木の実がティバーンの肘鉄に弾かれて飛んできたので、慌てて手を出す。なんとか両手で包み取った紡錘形の実は二つ、親指と人差し指で作る円程度の大きさで黒い皮が艶やかに光っている。ティバーンは両手にそれぞれ溢れんばかりに掴み持っていて、相変わらず妙なところで器用だと感心してしまった。
「なあ、この布取って広げてくれ」
そう言いながら、左腰をくいっと持ち上げるそぶりをする。黒いベルトに挟み巻かれている赤い布が、それだろう。ネサラは果実を潰さないように持ち替えて、赤布を引き抜きにかかった。結び目を解けば思いの外するりと抜けてしまった布をティバーンの前であけると、両手の実を全てその上にばらばらと広げ出したので落とさないように布を袋状にたわめていく。
「降りて食おうぜ」
言うなりティバーンは一直線に地表に下っていくので、ネサラも後に従う。
細く張った幹枝も降り立った地面も、心なしか乾いており、なにやら色彩に乏しいように思えたが、全ての輝きが実の中に集められているのだとすれば、それも納得できるような気がした。
どっかりと木の根元に腰を下ろし座を組んだティバーンは、枝先を見上げて立ち尽くしているネサラの上着の裾を引っ張る。
ネサラは視線を戻し、しゃがみながら布をひらく。
「気になるもんがあったら、俺に言えよ。食えるかどうかとか教えてやる」
「……頼もしいね」
ティバーンに勧められて、木の実を口に含む。酸味と少しの苦味。そしてその根底に確かに香る甘みを感じた。
「好きか?」
不意に問われて、続けてかじった実の先をろくに味わわずに飲み込んでしまう。
「種が大きいのが難点だな」
「味は?もっと甘い方が好きか?」
「味の好みは特にないが」
前王時代の軽い飢餓を経験したこともあって、ネサラは食に頓着しない。幸いなことに味覚自体に異常はきたさなかったが、そんなネサラを不憫がるニアルチが張り切って用意する食事も、おいしいと思うものの好きだの嫌いだのの評を下すことは思惟の端にも上らなかった。
「じゃあどんな食い物が好きだ?肉とか、酒とか」
「それはあんたの好物だよな…」
「なんなら食い物じゃなくてもいい。好きな物」
ティバーンの勢いに気圧されて、ネサラは実を食べ進めることもできずに瞬きを繰り返す。
「知ってるぜ。お前は鷺が好きで、セリノスが好きだ。鴉たちのことだって好きだろう」
「そうだな」
「でも俺が言いたいのはそういうのじゃなくて、もっと気軽に責任もなく、手放しに好きだって言えて、気軽に誰かにあげたり逆にもらったりできる、そういう類のもんのことだ」
「…ああ、コインとかか」
「コイン」
ティバーンは幾分か気落ちしたように反復したが、実際ネサラはコインを眺めたり磨いたりする時間を含めてコインそのものに興味があるし、好きだと言えるだろう。いまも懐のうちに忍ばせてある。
「コインな…」
ティバーンがなにやら思案に耽るように親指でこめかみを突き始めたので、先ほどの声音は落胆を示していたわけではないようだ。何か彼なりの琴線に触れたのかもしれない。
しばらく沈黙が続いて、ネサラが手持ち無沙汰にひたすら木の実を食べていると、視界の端の木の陰から、ふと薄茶けた毛並みの小さな獣が草の陰から顔をのぞかせていることに気がついた。
木の実をやってもいいのだが、とネサラは考える。これ以上近寄ると、おそらくティバーンの食欲を刺激してしまうだろう。確認がてらティバーンの方を見ると、その眼差しはいつの間にかしっかりと見開かれ、狩りの対象を捉えきっていた。
「肉だな」
獲物を追って姿を消したティバーンがネサラの元へと戻ってきたのは日の傾きも大きくなってからだった。ネサラは徒食に飽いたものの、残った木の実を捨ててしまうわけにも行かないので、そっと据え置いて離れすぎない範囲で探索するにとどめた。しかし、ベグニオン方面にある山岳地帯の記憶と比較して、標高の目測をつけたり、大体の現在位置を割り出してみたり、となかなか気ままに楽しむことができた。そして、先に連れ合いを見つけたのは、戻ってきたティバーンの方であった。
「ネサラ!」
「ああ、戻ってきたのか…って、大猟だな、すごいじゃないか」
右手に数匹の小動物の後肢を束ね持ち、両肩に毛皮の肩掛けのようにツノを持つ足の早い中型の獣を乗せた姿は、天空の覇者と聞いて想像する姿とはあまりにかけ離れているように思う。未だ生命のとどまっていることを示すかのような前肢の動きは生々しいが、傷口の位置も大きさも絶妙で、ティバーンの狩りの腕前を見事に示す。
「穴場も何もわかりきってるからな」
誇らしげなティバーンを尻目に、ネサラは置きっぱなしにしていた木の実を包みを探して、取り上げる。
「洞窟の方角って、向こうであってるか?」
割り出したばかりの位置情報をティバーンに確かめると「そうだ」との答えが返ってくる。しかし、実際にそちらに翼を向けると、ティバーンの制止を受けたのだった。
「そっちは山頂だからやめとけ」
「山頂に何かあるのか?」
「王の遺骨が撒かれる場なんだ。もっともこの山にお前を連れてきた時点で慣習もへったくれもないんだが…」
珍しく歯切れの悪いティバーンの反応に、ネサラは少し話の軌道を逸らそうと、そもそも持っていた疑問を投げかけた。
「この山はどういう場所なんだ?王としての力試しの一環ってわけでもなさそうだな」
「いや、それで合ってるだろうよ。少なくとも俺は、ここに登ってこれる力を持っていて、そんでここが気に入ったからよく遊びに来たってだけだ。先代の王の遺骨を撒くために来た時にゃあ気は滅入ったけどよ。でも、山頂にはフェニキスを作り上げた王たちが眠ってるから、何か大事に臨もうって時には報告に行くことにしてる。例えば…あの戦を起こす前とかな」
「何か非現実な力でもあるかのような…いや、否定するつもりはない、迂回していけばいいのか?」
頷いてティバーンは先導するように翼を動かした。
洞穴への帰路、ティバーンは山についての話を続けた。山で見た景色、食べたもの、考えたこと。先王にまつわる話も。目的地が見えてきたので、ネサラは思い切ってティバーンの処遇について訪ねた。
「じゃああんたの最後もここがいい?」
「俺はこの山には葬られない」
ティバーンはきっぱりと言い切った。
「だから、二度とここにはもう来ない」
「気に入りなんじゃなかったか」
「俺はフェニキスの鷹だけの王じゃなくなった。前はたった一年の間にも何回か来たりしていたが、事あるごとにフェニキスを訪れるのは、あんまりいいことじゃねえだろ」
二人は揃って洞穴の入り口に身を降ろす。どさどさと収穫を広げて、ティバーンは満足げだ。
「俺がここに来たのは、鳥翼の国をまとめてからだと二回目だーーま、この話の続きは、飯食いながらにしようぜ」
滑るように洞穴内部に踏み入り、奥まったところから伸びる隧道へと姿を消したティバーンは、少し経ってから桶にたっぷりの水を携えていた。
「奥に水脈があってよ。暗いが慣れたら松明なしでも汲んでこれるようになった」
「確かにここは随分涼しいが…生きた水脈があるなら、不思議でもないな」
ティバーンはしゃがみこみ、手際よくナイフを取り出して獣の腹部に刃を入れた。滑らかに刃先を動かし、肉を開き、内臓を取り出す。
「…俺がすること、何かあるか?」
「ん?そうだな…火通した肉と生肉どっちが好きだ?」
「焼いてあるほうが食べやすいな」
「じゃ、火を起こしてくれ」
「わかった」
すぐに飛び立ち、薪を集めに行く。戻ってきた頃にはティバーンの作業はだいたい終わっていて、肉を切り分けているところだった。火打ち金と火打ち石は、乱雑に散らばったティバーンの生活跡の中にあった。おなじく穴の中にごろごろと転がっている大きめの石を集めて並べ、簡単なかまどを作り、火をつける。風を送って火を大きくしながら、かまど用に持ってきた木の枝にティバーンが肉を刺し通していくのを眺めていると、声が投げられた。
「案外できるもんだな」
「あ?」
「全部じいさんがやってるみたいだから、お前自身の技量はそうでもないと高をくくっていた」
「常に一緒にいるわけじゃないし、火をつけられないで困るのは俺だ」
木材に十分に火が回ったのを確かめて、肉を刺した枝の両端をかまどの石に引っ掛けて火に当てる。
ティバーンは隧道の奥へ肉を運ぶなど数回行き来をし、かまどを挟んでネサラの向かいに腰を落ち着けたところに、ネサラはくるくると回してた肉の食べ頃に焼け上がった串を差し出した。
豪快に一口かぶりついて引きちぎる。咀嚼しながらティバーンは串をかまどに立てかけて、別の串にまだ用意してあった別の生肉を刺していった。
食べながら焼き、焼きながら食べ、ティバーンはそばに転がっていた瓶を引きずり寄せてネサラに差し出した。
「酒か?」
「当然だろ」
受け取りを渋るネサラに対し、ティバーンは少量含んで飲み下す。
「味も悪かないはずだ」
「飲まなきゃ語らえないとでも思ってんのかね」
皮肉げに笑いながら、結局ネサラは瓶を手にし、煽り飲んだ。喉を通り抜ける灼熱に、思わず顔をしかめる。重い酒を好む男だ。後から立ち上る香しさは原料だっただろう穀物のみでなく、花の蜜のような感覚さえある。
「この隧道のそこここに、いつの王が用意したのかも知らねえ酒が見つかる」
不安になる物言いに視線を戻せば、いつのまにかティバーンの手には別の瓶が握られている。
「鷹の好みなんて、大差ないのかもな。みんな酒や肉が好きでそこに個人の別はない。好き勝手に酒を作って、悪酔いしてぶっ倒れたりなんて、鷹ならだいたい誰でも経験あることだ」
「…難儀な種族だな」
「でもな、鴉もそうだったとしてもな、ネサラ」
ネサラの茶化すような相槌を、ティバーンは受け止めなかった。肉を貪る手も止まっている。
「俺はお前の口からお前の好きなものの話を聞きてえ」
日は沈んでしまった。かまどの火だけが明るい。ちらちらと光を反射する瞳は色素が薄くて一面炎の色だ、その中で瞳孔だけがその存在を示す。まっすぐネサラに据えられた黒色。
「……」
全部の光も吸い取ってしまうような。
「キルヴァスに、お前のとっておきの場所があったら連れてってくれよ」
「あの島に興味があるのか」
「お前が執着した国だ」
「もうない国に想いを馳せてどうする」
瞬間響くティバーンの息を吸う音。ネサラは慎重に、しかし手遅れを悟りながら言葉を続ける。
「…あんただってもうここにはこないんだろ」
噛み切れない肉塊のようだ。不和のきっかけはいつまでも飲み込めないままそこにある。
「そうだ。そうだな。そのために」
ティバーンは言葉を切って瓶を煽った。口端を指で拭う動作を目で追ってしまう。
「明日、俺と一緒に山頂に来てくれ」
「…なんだって?」
山頂に何があるのか既に知っている。過去の鷹王の眠る場所に、どんな顔をして臨めというのか。そもそも、何のために。
「鳥翼国が成って最初に来たのは、建国から何年も経った後だった。そのときに、戦の顛末とフェニキスの現状と…お前のことも、報告した。やらかしてくれたことと、当面の処遇も」
「俺のことまでか。わざわざ悪いね」
「当然の流れだろ。それで今回は、安定したいまの鳥翼国についてと…やっぱりお前のことを報告したいからな」
「今度は俺の何を報告するって?」
「未来を」
ティバーンはかまどを回ってネサラの側に寄る。改まった様子で「ネサラ」と呼んだ。
「お前は外交官でずっと国の外を飛び回ってるが、俺はお前を、城で働く他の連中と同じように腹心だと思っている」
「身に余る言葉に思えるが」
「そんなはずがあるか。お前がいなきゃ立ち行かなかった場面なんて数え上げたらきりがねえ。お前がいなきゃ…俺の鳥翼は、理想も失う」
ティバーンは持っていたものもそのままに、ネサラの首を抱き寄せた。勢いで少し腰が浮いたが、すぐに戻る。
右手に酒瓶、左手に焼き串。こんな様相で迎えるべき状況ではないだろう、と頭の片隅に嘲笑が浮かぶ。しかしティバーンのいっそ重苦しいまでの覚悟そのものを笑ってしまうことはできなかった。
「俺と一緒に鳥翼の未来を誓ってくれ」
たとえようもないほどずるいと思う。ネサラには頷く他に術はない。鳥翼への献身はとうに誓った身なのに、と。それでもティバーンはいつまでもネサラが己と同等の高みにいることを望んでいる。その庇護下に降ることを許しはしない。そしてそこまで追い詰めながら、ネサラの意思の力さえ求めている。
答えずにいる間に、ティバーンの腕にこもる力は増していく。肩に擦りつけられる頭の重さ。
ネサラは瓶を側に置く。空いた手で、そっとティバーンの二の腕をなぞった。
「俺の未来はあんたのものだよ」
これがティバーンの希う言葉でないことはわかっている。しかし、どんな言葉が望まれているのかがわからない。いっそ言葉でなしに伝えられたらいいのに、ネサラには言葉しかない。
夜は静かだ。
火の爆ぜる音。遠くで鳴く夜鳥の声、虫の声。草木を撫ぜる風。
いつもより幾分も早く脈打つ拍動が、腹の底で蟠って、沈んでいく。