夢を見たあとで

 鳥翼の民の朝は早い。
 その日、ネサラは己の治める土地ではなく、隣国フェニキスの王城で目を覚ました。フェニキスに住む旧知である鷺の王子リュシオンを訪い、長く語らい過ごしているうちにとっぷりと日が暮れてしまったのだ。
 寝台から降り、椅子にかけておいた上着を羽織る。胸の隠しから櫛を出し、解いた髪を梳いていく。毛先をつまんで少し乾いている様子を確かめると、ネサラはさらに小瓶を取り出して、中身の液体を掌にこぼし、髪へと塗りつけた。漂う香気を楽しみながら両手を使って髪全体へと塗り広げていると、無粋な声が立ち入ってきた。
「それだよそれ」
 振り向くと、戸口にもたれかかるように、リュシオンを後見する鷹の王ティバーンがこちらを見ていた。
「それ?」
「その水だよ、そりゃなんだ、不思議な匂いがする」
「ああ、これね」
 ネサラの手の中にある小瓶。黄味がかった透明の液体で満たされている。そして昨日、リュシオンに贈ったものと同じものであった。
「水じゃなくて油。木から採れるものでね、あんたも知っている香りだろう?」
「木から?油?」
 どうやって、と続けざまに訊こうとするティバーンの混乱が見て取れて、ネサラは喉の奥で笑った。意地が悪いのをこらえるような笑い方になってしまう。
「あんたがそこまで食いついてくるなんて、ニンゲンの知恵とやらも悪いものじゃないな」
「!」
 ネサラの予想と違わず、ティバーンは盛大に顔を歪め、舌打ちまでして不快な様子を露わにした。
 ”ニンゲン”とはベオクという種族を指す蔑称であったが、ベオクはネサラの商売相手でもある。鳥や獣に姿を変えて戦うことのできるネサラやティバーンのようなラグズと、武器を携え知恵を頼みに戦うベオクは、その歴史上の軋轢から常に相容れずに緊迫した関係が続いていた。ネサラはラグズの身でありながら、ニンゲンーーベオクの商人や貴族らと取引をし、利益を得、築いた財によって王としてキルヴァス王国を治めている。その点において、ラグズの誇りを是とし、フェニキス王としての即位以来、ベオクとの対立の姿勢を崩さないティバーンとは、特に折り合いが悪い。
「そんなもんを、リュシオンに…!」
「……言いたいことはわかるがね」
 憤りをそのままぶつけるような声音のティバーンに、ネサラはあくまで冷静に応対する。
 鷹の国であるフェニキスに、鷺の王子たるリュシオンが滞在しているのは、ひとえに彼の祖国セリノスが滅びてしまったことによる。
 セリノス滅亡の原因となったのは他ならぬベオクの暴動であり、リュシオンが抱いたベオクへの憎悪は計り知れないものである。生来穏やかな気性を持ち、正の感情に身を委ねて暮らしてきた鷺の身では、他人が持つ負の感情に触れるだけでも害であった。にもかかわらず、激しい憎悪はその身の内で沸き起こってやまない。彼の精神と肉体は外見にもわかるほどに、蝕まれていった。
 フェニキスに居を移してから数ヶ月のリュシオンは、立ち上がることもままならずに寝込み続けたほどだった。数年が経過する今においても、回復とは縁遠く、かつてセリノスの森に満ち満ちた歌を口ずさむこともままならないのだ。その苦しみをこの先半永久的に、あの繊細で弱々しいとさえ思われる心身で抱え続けていく負担を思うと、やりきれない。ネサラもティバーンも、リュシオンの前でベオクに関する話題は、たとえ何であれ口の端にのぼらせることもできない。
「でも、どうしても……持たせてやりたかったんだ、セリノスの、欠片でも」
 かつてのセリノスは大森林であった。草花が生い茂り、木々の、葉の、花の果実の土の匂いで満ち溢れてた。
 セリノスとキルヴァスは地形も植生も大きく異なったが、育てることができたものもある。そのうちの一本、その根から採れた精油が、これだ。無論セリノスそのものの匂いとは程遠い、しかし、所縁のある香りはリュシオンを癒せるかもしれない。そうネサラは考えたのだ。
 ネサラの顧慮を汲み取ったのだろう、ティバーンの表情は苦虫を噛み潰したようであったが、それ以上の追及が飛んでくることはなかった。
 しばらくの沈黙ののち、ネサラは再び髪に精油を吹き付け、毛先に揉みこんでいく。爽やかながら柔らかく広がる香りに鼻先をくすぐられれば、やはりセリノスを思い出す。フェニキスもキルヴァスも、不毛の地ではないが、セリノスには遠く及ばない。この国では、まずは土と潮の匂いが鼻腔を満たす。
 油で手入れを施した青髪は、窓から差し込む朝日を受けて鈍く輝いた。
 ネサラは胸の前に垂らした己の髪を撫でながら、リュシオンが持つ、流れる白金を想起する。滑らかで美しい、まっすぐさは、彼の有り様と強く結びついているように思えてならない。
「ずいぶん伸びたんだな」
「え?」
 顔を上げると、戸口にいたはずのティバーンはすぐそばまで近づいてきており、無骨な手が、ネサラの髪に触れる。
「セリノスにいた頃には、伸ばす素振りもなかったくせに」
「……ああ、と言っても、ここまでしか伸びなかったが…」
 かつて、ティバーンもネサラも王ではなかったほどの昔、彼らはセリノスの森で時を過ごした。ベオクとラグズ間の、あるいはラグズ同士の中でも芽吹きつつあった不和も対立もなく、あのままの関係が続けば、鷹と鴉と鷺の三国に分かたれてしまった鳥翼という種族が、再びまとまる希望も持てた。
 ところが、彼らのあずかり知らぬところでーー予兆はあったもののーー鳥翼族は再び道を分かつこととなった。
 その頃だ、ネサラが髪を伸ばし始めたのは。
 自らの髪が、伸ばすにつれて毛先が波打ち、うねる性質であることは、知らなかった。
 そして、髪の長さに限界があることも。目標を定めずに伸ばし始めたものであったが、腰に届くか届かないかあたりから、伸びなくなってしまったのだ。
「…ニアルチが、寂しがったからな」
 ニアルチはネサラが赤子の頃から世話をしてくれている、老いた鴉である。あらゆることを器用にこなすあの老鴉は、セリノスでもネサラの赴く先々についてまわり、リュシオンや、彼の妹である鷺姫リアーネの、背中を覆い、さらに伸びてゆく豊かな金髪を綺麗に結わえてやったり、朝の支度を手伝ったりもしていたのだ。その様子は、子供であるネサラの目から見て、ずいぶんと楽しげだった。
 セリノスから足が遠のき、鷺らと顔を合わせることもなくなったキルヴァスの城で、変わらずニアルチはネサラの世話を続けたが、時折手が寂しくなるのか、編み物を試みるようになったのをネサラは知っていた。
「お前も大概素直じゃねえな」
「……俺のことは、どうだっていいんだ」
 手櫛でネサラの髪をもてあそぼうとするティバーンを振り払うように、ネサラは一度大きくかぶりを振った。ほの暗く青い一束は、かすかに音を立て、手から流れ落ちて肩を滑る。手首に結わえていた紐を解き、首の後ろで髪をまとめて一つに括る。手慣れたものだ。日々の手入れは継続こそしているが、邪魔になってはたまらない。ネサラは鴉の王であり、国家存続の要となる商売の相手はテリウス大陸全土に点在しているのだ。迅速に、正確に、仕事をこなす。王はその規範とならねばならない。
「リュシオンが欲しがるものがあれば言ってくれ。あんたよりもずっと確実に手に入れられるはずだ」
 額に垂れかかる前髪をかきあげて、真っ向からティバーンを見据える。
 この男と道を同じくすることはない。
 何もかもが違う。民が求める王の姿も、王として民に与えたいと望むものの形も。ベオクとの関わりも、ラグズとの関わりも、隣国同士の関わり方も。何を仲間だと思い、何を利用して、何によって国を立てるか。
 二人を結び受けているのは、同族のよしみなどではなく、それぞれの縁で繋がったセリノスであり、リュシオンだった。それのみが鷹の王と鴉の王とが敵対することを防いでいる。
 奇妙な確信に似た気持ち、そうたれと願うわけではない、ただ、現実的な展望としてネサラの胸によぎるのである。
「リュシオンの欲しいもの」
 ティバーンは口の中でそう呟いた。その唇から、沈痛な面持ちが広がっていくのが手に取るようにわかるが、胸中は窺い知れない。
 ーーいや。リュシオンの欲しいはずのものは、わかっているのだ。鷺が暮らすセリノスの眩い光。輝ける未来。鳥翼の和合。恒久的な平穏。
 ないものは、手に入れられないのだ。セリノスの森が侵略されたものなら、戦って取り返すこともできただろう。しかし、森は焼かれた。木も土もなく燃え尽き、命の芽吹く場所ではなくなった。
「どうにも、ダメだな」
 ティバーンが肩を落とす。どれほど心を砕いても、セリノスを元に戻すことはできないのだ。暴動を起こしたベグニオン側には相応の対応をとの働きかけを幾重にも続けてはいるが、大陸一強大であり、また種として敵対傾向にあるベオクの国家たるベグニオン帝国は、フェニキスを、辺境の小島に逃れて隠れ住む鳥の集落としてしか捉えていないのだ。国同士の対等な交渉を望んでいるが、現状全く進展がない。
「朝飯にしようぜ。リュシオンもそろそろ起きる頃だろう…時間は取れるな?」
「……もちろんだ」

 朝食の場へと通されたネサラは、卓上を覆い尽くす皿の数、盛られた料理の量を見て、同席を肯んじたことを少しだけ後悔した。しかしその直後、鷹王の側近二人、ヤナフとウルキに挟まれて姿を現したリュシオンの顔色に気がつくと、たまらず駆け寄って覗き込むように視線を合わせる。
「リュシオン!ひどい顔色じゃないか。ちゃんと寝てないのか?」
「ああ、いや、その」
 もともと鷺の肌は日に焼けるということも知らない、陶器のような白さを持つものだが、それでも常ならば血色を透かしてほの赤く染まり柔らかな色合いをしている。それが、今は完全に色を失っており、目の下もうっすらと黒ずんで、体調の思わしくない様子が手に取るようにわかるのである。
「おまえがくれた、木々の匂いが」
「!」
「どうしても…懐かしくて、」
「……!……悪い、そうだよな、思い出せばつらいに決まっている。考えが至らなかった」
 ネサラが言葉を尽くし、さらに謝罪を続けようとするのを、リュシオンは薄く微笑んで制した。その様子に驚いたのは、ネサラだけではない。ティバーンも、ヤナフもウルキも、数年来で塞ぎ通しだったリュシオンが、他人につられてではなく、自ら笑んで見せるのを、久々に目にしたのである。
「リュシオン…?」
「おまえはいつも私を気にしてくれている。私はそれをずっと知っていた」
 現状、リュシオンの後見役はティバーンであり、住居はフェニキスである。
 キルヴァス王たるネサラもリュシオンとは旧知の仲であり、彼がそうと望み手を尽くせば、リュシオンがキルヴァスに住まっていた可能性も、あっただろう。ただ、ネサラはそれをしなかった。できなかったと言っても良い。
 従前より、キルヴァスはベオクとの関わりを絶つことはできない。ベオクの慣習の数々が流れ込んだキルヴァスの地では、リュシオンは安寧とは遠く暮らすことになるだろう、という考えもあってのことだ。無論、貴人のお世話などという発想のないフェニキスよりは、幾分にも経験豊富なニアルチの甲斐甲斐しい世話を受けた方がいい面もあっただろう。そう考えたからこそ、一時期ネサラはニアルチをフェニキスに派遣し、鷹の侍従にその心構えから知識・技能に至るまでを、ごく短い期間ではあったが叩き込ませてやったのだ。
 それでも、同年代であり、最も親しい存在として幼少期を過ごした仲であるリュシオンへの不義理を働いた、誰に責められるでもない、湧き上がる罪悪感は消しきれず、今回のような訪問を頻繁に行っている。
「セリノスの森は、失われてしまった。でも、おまえもティバーンも、セリノスの土地を取り戻すために、たくさんのことをしてくれている。……私ばかりがいつまでも過去に追いすがって夢を見ているわけにはいかない」
 リュシオンの、顔色こそ憔悴しきって見えたが、翠玉の瞳は力強く輝いて、セリノスで生まれ育った生命のありかを知らしめた。
「おまえがくれた森とともに一晩を過ごして…気がついたのだ。森で生まれた私も、おまえと私、ティバーンを結ぶ絆も、なくなってはいない。今度こそ失わぬように、私も強くあらねばと思った。……ティバーンのように」
「……!?待て、リュシオン」
「なんだ…?何か問題があるか」
 途中まで神妙にリュシオンの決意を聞いていたネサラだったが、どうしても、最後の一言だけは聞き逃すわけにはいかなかった。
「その、ティバーンのようにっていうのは、ちょっとどうかと思うんだが」
「おい、ネサラ、俺のこと話してるなら通訳しろ。俺たちは古代語がよくわかんねえんだ」
 声がくぐもって聞こえると思ったら、いつの間にかティバーンは床に座し、広げられた干し肉と麺麭を頬張っている。
「リュシオンが、あんたみたいになりたいって言うんだ。頼むからあんたからもやめるように言ってやってくれ」
 ネサラは手短に、しかもかなりがさつにリュシオンの言葉を意訳して伝える。ティバーンやネサラらは一般に現代語と呼ばれる言語を操り言葉を介すが、リュシオンをはじめとした鷺の民は、現代語が発明されるよりも前に生まれた言語である古代語を用いて語らう。ネサラはかなり古代語を理解するし、リュシオンの方は鷺の民の持つ特殊な心を読む能力でそれぞれの発話能力を補って会話をすることができたが、ティバーンは昔から肉体言語と直感でリュシオンらの古代語を理解するでもなく判断する程度であり、その齟齬を埋めるため、ずっとネサラが通訳がわりを務めてきたのである。
 ティバーンは目を丸めて驚いた表情を作って見せたが、すぐに吹き出し、声をあげて笑い始めた。
「鷺のおまえが、鷹の俺のように!いいじゃねえか、やって見せろよ!」
 呵々大笑する王を止めるのは、従者の役割だった。
「ちょ、ちょっと、王!いくらなんでも無茶が過ぎますよ」
「……飛ぶ訓練から始めましょうか」
 ヤナフはかなり慌ててティバーンの勢いを押しとどめる様子であったが、ウルキは案外乗り気なのかもしれない。
「おい!ウルキ」
「ああ。必要ですね。体力もつけていかないと…あとは、そう、言葉も学びたいと思うのだが」
 そう言うと、リュシオンはちらっと上目遣いでネサラを見た。
「………!」
 ネサラは視線をそらしてやり過ごそうとしたが、上手くいかない。元来頑固な性格だったが、鷹のような強さを、と意識したことでより意志を固く持てるようになったのかもしれない。
「……わかった、先生代わりにニアルチを貸してやる…」
「本当か!? ありがとう、ニアルチがいれば百人力だ」
「…これだから……」
 ネサラは少し臍を曲げる、リュシオンは、ネサラにというよりはニアルチになついているように思われる態度をしばしばとるのだ。
 仕方のないことだと、わかってはいる。フェニキスに移りたてで心細かったであろう時期に一番身近にいたのは他でもないニアルチなのだ。精神の磨耗が肉体に現れ、睡眠も食事もろくにとれず、髪も肌も荒れ羽根も抜け落ち弱りに弱ったリュシオンの回復に最も寄与したのは、ニアルチによる献身的な看護だったはずだ。リュシオンがどうにか自力での生活を送れるようになった頃にはニアルチの方が寝込んでしまったくらい、並々ならぬ力を注いだのである。
「まぁ、いいさ。おまえがそうやって決めたことを手伝えるのは、嬉しいよ」
 ネサラも小さく笑って、リュシオンを朝食の席へと導いた。細く輝く白金の髪を、軽くなでる。絹のようになめらかで、ネサラの胸に安堵が広がる。
 失われた多くの鷺の民。身に慣れぬ恐怖、悲嘆、憎悪、怒涛のように押し寄せる感情の波に、リュシオンまでさらわれていってしまうと思われた。
 それを、ここまで、取り戻すことができた。
 ヤナフが張り切ってリュシオンの皿に木の実を中心に、朝食を取り分けていく。リュシオンは腸詰を欲したが、ヤナフの懇願と、ウルキの助言で事なきを得たようだった。
「…ネサラ」
 束ねた髪の先を握られ、頭が後ろに仰け反ってしまう。手の主は、鷹の王だ。
「なんだよ」
「……おまえが教えてやるわけには、いかねえのか」
「っ……」
 ネサラはぐっと拳を握る。
 ネサラの商売相手には、ベグニオン貴族も少なくない。そのつてをたどって、なんとかセリノス再建の手立てを取れないかと機を窺ってはいるのだが、何しろ欲深い連中のことだ。ネサラが鷺の王子リュシオンと特別に懇意であることが知れたら、何を言い出すかわかったものではない。
 それでなくとも、セリノスの森が燃やされた時、這う這うの体で逃げ出した鷺たちを捕まえ、観賞用にと手中に収めた挙句に、その気高い精神を損なわせ、みすみす殺した憎むべきニンゲンそのものだ。彼らとの関わり合いを、リュシオンと過ごす時間が長くなることで露見させてしまう事態は避けなければならない。心を読む鷺の目をごまかす術はとうに習得済みではあったが、危ない橋は渡らないに限る。
 他にも様々、ネサラにもキルヴァスにも、抱える隠し事は山のようにあるのだ。
「あんたが後見役なんだ、俺が口を挟むべき事じゃない」
 ティバーンの指は、まだネサラの毛先を遊ぶように引っ張ってる。誘われるように隣に腰を下ろすと、ティバーンはせっかくまとめたネサラの髪を、ぐしゃぐしゃとかき混ぜてぽんぽんと叩いた。
「おまえの髪は夜明けの太陽を待つ空の色なのに」
 頭頂を押さえつけられて、ネサラは顔を上げることができない。ティバーンの低く抑えられた声だけが聞こえる。
「どうしておまえはまだそうやって夜の闇に残りたがるんだ」