ネサラは血の誓約について知っている。
血の誓約は呪いの発動権を持つ相手が必ずしも有利な呪術ではない。ネサラはこれを同害復讐法の上に立っているのだと理解している。キルヴァスがベグニオンと結んだ誓約では、まず根底に両国への不可侵が敷かれていた。百年前には、キルヴァスがベグニオンの国土を武力を持って侵したため、ベグニオンはキルヴァスに呪いを与えることができた。この誓約の下にある限り、キルヴァスの力によって直接ベグニオンを侵すことは認められない。これには例外がない。
しかし、間接的にベグニオンに打撃を与えることは可能だった。例えば物品をベグニオンの敵国に供すること、キルヴァス王の庇護下にない鴉が他国の指揮官の下で戦闘に参加すること、ベグニオンの機密情報を得て他国に流すこと。当然ベグニオンはこれを禁じたいが、誓約の文言によれば、その場合キルヴァスを損ねないように、対価を支払う必要が生じる。誓約はキルヴァスを食いつぶすためのものではない。キルヴァスには十分な対価を求める権利があるのだ。
二国間の意見が擦り合い、誓約の印ーー元老院の持つ誓約書と、キルヴァス王の腕に現れる紋様ーーを揃えて新たに契約を結ぶ。これを侵せば呪いが降り掛かる。一方で、元老院の要求を拒否することは、たとえそれがどれほど低俗なものであったとしても、「ベグニオンを損なう行動である」として呪いが発されると見て間違いないため、難しい。ネサラにできるのは、いかにキルヴァスの実になる条件を元老院に飲ませるかに尽きた。
その日ネサラは疲れ切っていた。ベグニオンの帝都シエネに赴き、新たな元老院からの要求に関する代償を巡った一勝負を終えてきたところだったからだ。このうえさらに、今日は厄介な案件が待っている。黒翼を捻って風を追う。どんよりと重たげな空模様に心底嫌気がさしていたが、ぽつり、と額に当たった水滴に続けて、どんどん大きくなっていく雨粒がネサラの全身に打ちつけてきて、発散しようのないやるせなさが胸中を占めていった。
ようやく帰り着いたキルヴァス城の、張り出した露台に降り立ち化身を解く。額に張り付く後れ毛を掻き除けて、ネサラは駆け寄ってきた鴉の部下に声をかけた。
「もう来てるか?」
「ええ、幸いにも雨の降る前にご到着なさいました」
「そりゃ…かなり早いな」
「そうですね、約束の時間よりも、相当にお早かったと思います」
拭い布を受け取り、顔と手、続けて後ろでまとめた髪を絞るように拭き上げる。
「湯殿を用意してあります」
「いや、あとでいい」
「しかしそのままではお風邪を召されてしまいます」
「面倒ごとを済ませるのが先だ。どうせすぐに終わる」
「ネサラ様!」
たしなめる声も意に介さずにネサラは自室へと向かう。通常の客なら応接室を使うが、今回は相手が相手だ。頑としてネサラのテリトリーへと入りたがって聞きやしない。濡れた衣服が体に張り付いて気持ち悪い。一刻も早く彼には帰ってもらって、身体を整えたいところだ。あの男が国内にいるというだけで、ネサラは落ち着かない。
ネサラが王になってから、元老院との関係は比較的良好だった。ネサラは元老院から金を引き出す術を学んでいたし、元老院は自らの手を汚さずに欲を満たすことができている。
しかし最近どうにもきなくさい。先行きが危うい。
「随分とお暇なようだな、鷹の王は」
室内に入るなり、予想通りに客人の姿を認めたネサラは開口一番そう告げた。
「ああ?そりゃおまえが逃げないようにだな…ってなんだそのナリは、びしょ濡れじゃねえか!」
「こっちは忙しいんでね、あんたと意味のない話をするだけが仕事じゃないんだ」
「いいから着替えてこい!そんなんじゃ風邪引いちまう。ずっと待ってたんだ、湯浴みも着替えも待つのは一緒だ、行ってこい」
発せられる言葉もその心も全てが煩わしい。拭いきれなかった雫が髪から頬を伝ってぱたぱたとひっきりなしに床に落ちていく。
「うるさい。あんたとの話が終わったら行く」
「おまえなあ!」
ずかずかと歩み寄ったティバーンは、遠慮もなしにネサラの手を取る。突然触れたぬくもりに相対して全身の筋肉が一瞬収縮する。自身が冷えきってることをはじめて自覚して、一気に震えが走った。
「こんなに冷てえのに、何言ってんだ!」
「っ、はなせ、」
歯の根が合わない。カチカチと奥歯が鳴るのが口内でこだまする。
「……あんたは俺にラグズ連合への参加を説く。俺は断る。それで話は終わりだろう。早く帰れ。そうしたらーー」
「ごちゃごちゃうるせえのはどっちだネサラ!」
「!」
指先さえうまく動かせなくなってしまった体を、ティバーンは容易く引き寄せて肩まで抱え上げた。そのまま滑るように飛び、部屋を出る。
「どこに行ってたらここまで濡れる?まさかまだベグニオンと商売してるのか」
「当たり前だろう。あんたにとっちゃ憎むべき敵でも、俺にとっては大切なお客様だ」
腹部に当たるティバーンの肩や腰を支える掌さえ温かい。
「おいおまえ!湯殿はどこだ」
「えっあっ、え!?」
ティバーンの大声に答えたのは鴉兵だろう。ネサラの頭はティバーンの背中側に降りているので、その姿が見えない。
「この強情な濡れ鴉をぶちこんでやりてえんだ。とっとと案内しろ」
「は、はい、こちらです」
蹴り飛ばしてやりたいのはやまやまだったが、少し蹴った程度ではティバーンには屁でもないだろうし、身体中がこわばって力も入らない。
湯殿は用意してある、という部下の言葉通りに、直前の脱衣所にも既に湯気が漏れ出ていて、十分な温かさを感じた。降ろされたネサラがかじかんだ手を握ったり開いたりしている間にティバーンは湯殿付の侍従を追い立ててしまう。
ティバーンは布を噛ませて扉を閉めると、緑の上着を脱ぎ払って籠に放り込んだ。羽根の首飾りを後ろ手で外す様を見るともなしに眺めながら、張りつめていた皮膚と同時に心も少し緩んだのか、ネサラの意思を介さない一言がぽろりと漏れ出た。
「……ここで話せばいいんじゃないか、結構あったかいし」
自分の声に気がついて咄嗟に口を覆う、そもそも話をするつもりなど毛頭なかったはずなのだが。
「往生際が悪いな、おまえも脱げよ。俺が背中拭いてやるから」
「……は…?」
言いながらもティバーンはどんどん衣服を脱ぎ去っていく。額布もさらしも一緒くたに籠の中だ。
「手伝ってほしいのか?」
ティバーンの指がネサラの胸元の金具に触れる。はねのけようと掴んだ手の甲がこの部屋よりもずっと温かいままだったので、じんわりとひろがる熱を五本の指全てで感じ取りながら動けなくなってしまった。
実際ネサラは相当寒さにこたえていたし、この温かな部屋からは離れ難くて、ティバーンの強引さに流される形になる。
元々伸縮に富んだ素材でつくられているわけではない上着は濡れてしまったことで余計に自由を失っていて、結局中の開襟シャツとともに脱ぎ捨てるしかなくなっていた。その後で二枚の服を引きはがす。滴り落ちる水はあいかわらずの量で、思わずネサラは折り畳んで強く絞った。ぼたぼたと相当な水量が垂れ落ちていく。
靴もズボンも脱ぎづらく、床に腰を下ろして少しずつ引っ張るようにして脱いでいった。ネサラが苦闘している間にティバーンは素っ裸になっていて、茶化すような笑い声を立てていた。
「腕のそれは外さねえのか」
ティバーンが目を止めたのは、ネサラの両前腕を覆う布だ。隠れているのは常にネサラを悩ませる元凶であるが、まるで気に求めていない風を装って答える。
「ん?ああ、事情があってな」
「おまえはすぐそう言う」
不服そうなティバーンにネサラは更に応えようと口を開いたが、出てきたのは声ではなくくしゃみであった。続けて五回ものくしゃみを終えて、ネサラは思わず鼻をこすった。
「風邪引く寸前じゃねえか」
ティバーンはネサラの背中を押す。促されるままにネサラは浴室へ足を踏み入れた。湯気の量が脱衣室の比ではない。包み込むようなぬくもりとまとわりつくような湿気に、ネサラは人知れず息を吐いた。壁も床も天井も岩出で来ている部屋の、蒸気の根源は壁の一面にある。上から下へと湯が伝うように流れていて、それがこの空間を作り出している。
「結構な施設だな」
「そりゃどうも」
ティバーンが差し出した、脱衣室で見つけたのだろう手ぬぐいを受け取る。壁の側に寄り、湯で濡らして顔や首、肩を軽く拭う。熱が冷えた体にしみこむように感じて心地よかった。隣でティバーンも同じように体を擦っている。
「どうしてもベグニオンと戦わずにはいられないか」
そう切り出したのはネサラの方だった。ひとしきり汚れを落としてから、置かれた椅子代わりの岩に腰掛け体を温める。隣り合わせに座ったティバーンの体が大きく動いて、こちらを振り向いたことを肌で感じる。
「そんな戦嫌いが言うようなセリフを、おまえから聞くことになるなんて思わなかったぜ」
「…ただの小競り合い程度なら俺だって何度もしてるし問題ないんだがね。例えば今までのように船を襲うとかならな」
ティバーンの声が含む怒気が痛いほどだ。ネサラは慎重に言葉を選ぶ。ティバーンを怒らせるのは別に構わない。気を使うべきは、ネサラと元老院の関係について考えさせないことだ。
「だけど戦争となると話は別だ。あちらさんが俺たちを兵士として雇いたいって言うなら、俺たちはそれに従うだろう。金になるからな」
膝の上で拳を握りしめるのが見える。ネサラは極力ティバーンを見ないようにしたかった。壁だけを視界に入れて、話を続ける。
「だからといって、あんたたちと戦うってのも、兵の士気を考えるとよくないだろ。でも、あんたたちの側に着く理由は俺たちにはない。失うだけの戦なんてとてもじゃないけど参加する気にならない。と、まあ、そんな板挟みな状況に陥るよりは、戦が起こらずいてくれた方が気が楽だと思うってわけだ」
ティバーンの深刻さとは対称的にネサラは極めて軽薄に振る舞う。二人の持つ考えの違いをティバーンが認めれば、こんな無益なやり取りはしなくても済むのに。
「……どうしてだ?何が足りない?」
絞り出すような声は震えを孕んでいる。金だ、と言ってやりたいのはやまやまだったが、それを言えば下手な挑発と受け取られて拳が飛んでくるかもしれない。ましてや本音でもない言葉で。
扉を閉めているため浴室を満たす熱気は増していく一方で、心拍数も脈拍も上がっていた。体内にこもろうとする熱を吐き出すような呼吸で沈黙をごまかす。
「20年前にセリノスが焼かれたのは元老院の野郎共の差し金だって、ラフィエルがそう言ったんだ、これ以上どんな理由が必要だ!?おまえを動かすにはまだ足りないのか」
「その話は何度も聞いた。だが神使とは鷺にセリノスを返還する話ができてるだろう。いまさら元老院の悪行を掘り返してどうする」
「おまえはラフィエルに会いもしないが」
「長旅で疲れているだろうに、そんな話をするためだけに、汚い商売をしてる俺なんかと顔をあわせさせるのも忍びないというだけの話だ」
「その上で偽証だとでも言い出すんじゃねえのか?」
「……鷺を疑いやしないさ。あんたのことだって、俺は信じてるよ」
自分への問いかけの悲痛さに胸を貫かれる幻覚に襲われて、思わず本心を零してしまう。ティバーンを疑ったことは一度たりとてない。彼が自分に投げかける言葉は、鷺のそれと違わず真実なのだと、知っている。
「俺だっておまえのことを、信じてるんだ。どうしてもこたえてはくれないのか、ネサラ」
滲み出た汗がこめかみを伝い落ちていく。ティバーンの言葉がとても重い。胸が苦しくなる。この部屋の熱気からくる息苦しさとは違う、ここから出ても楽にはなれない、痛み。
「俺はあんたを裏切ることしかできない、あんたの期待に応えることはできない。とっくにわかってるはずだろう」
どうしたらいいのかわからない。すべてを明らかにすることはできない。求める助けはない。ティバーンがひとかけらでも持っているネサラへの信頼を全て失くしてしまえれば、楽になれるだろうか。
「なにいってんだ、三年前のことは忘れちゃいねえぞ。おまえは見事にリアーネを助け出して、なんだかんだ言いながら狂王とだって戦ったじゃねえか」
「ちがう」
希望を見出したかのようなティバーンに対して、ネサラは強い口調で否定する。
「そんな、そんなレベルの話じゃない、俺は」
勢いに任せて思わぬことを口走ってしまわぬように、ネサラは掌で口を塞いだ。
「…俺は、」
「ネサラ?」
「……あんたの望みを叶えてはやれない」
どうして、とティバーンは問うが、最適解を見つけることができない。
「あんたと共には戦えない」
仮にキルヴァスがラグズ連合に参加したなら、ベグニオンは自国の利益のためにその内部情報を流すことを求めるだろう。ネサラに拒む術はなく、連合は敗北するだろう。そのうえ寝返りまで要求されかねず、そこまでしてしまえばネサラひいてはキルヴァスと他国との軋轢はより一層深まる。それはキルヴァスの利益にならない。
ティバーンの隣にいることが、あとどれだけ適うだろう、と考える。無益な問いかけだ、とネサラは答えを見つけないうちに立ち上がった。逃げ出すつもりでいたのだが、ティバーンは慌てたように引き止める。
「おい待て、まだ背中洗ってやってねえだろ」
「本当にやるつもりだったのか」
「当たり前だろ。おまえも俺の背中、頼んだぜ」
重々しかった空気を取り混ぜるかのように、ティバーンは手ぬぐいを振り回す。ごし、と擦り付けられた手ぬぐい越しに、今度はティバーンから話し始めた。
「何もまだ開戦すると決まったわけじゃねえ」
「似たようなもんだろう」
「元老院が一言でも俺たちに応えれば、それだけで状況が変わる」
ネサラには元老院がラグズ側の要求を飲むとは思えなかった。ティバーンは最終通達の使者を送ったと言うが、その行方が原因となって、すぐに戦端が開かれるだろうことが予想できた。
そうかい、との他に、なんと相槌を打つことができただろうか。
「久々にこんな長風呂をした」
二人の入浴中に侍従が用意したのであろう大きな布で水滴を取りながら、ティバーンは朗らかに述べる。同じく用意された水差しから2つの杯に冷水を注いで、ネサラは片方をティバーンに渡した。
「ありがとよ。しかしおまえんとこの従者はすげえな。ニアルチがいなくてもこの手際の良さか」
そう言って目を落とした先のティバーンの服は籠の中で畳まれていたし、ネサラの濡れた服は姿を消して、代わりに違う乾いた衣服が置いてあった。
「ニアルチの指導によるんだから、当然と言えば当然だな」
ネサラは早速新しい服に袖を通す。予備の服は肌に慣れず、翼をなじませるのに少し手間取ってしまう。ラグズの衣服は毛皮も同然で、化身すれば外皮の一部となる。翼は脱ぎ着の際には透けるような心地なのだが、普段と違う服や、他人の服ではうまくいかないのが常だ。
なんとか着用を終え、杯を空にする。
「…それでおまえは、やっぱり連合には参加しないって言うんだな」
「わかってもらえて嬉しいよ」
薄い笑みを作りながら、ネサラは自分がいつも貧乏くじを引いてしまっていることを認識した。
望まぬ形で王になったかと思えば、そのキルヴァスは誓約に縛られている。セリノスが焼かれたときには誓約の行使によって救出に向かうのも遅れ、それが影響してか昔馴染みのリュシオンはティバーンを後見としているし、ロライゼも同じくティバーンの庇護下にある。狂王との戦いでは戦場の中心にまで引っ張りだされて無傷では済まなかったし、助け出したリアーネはキルヴァスには置いておけずにガリアで暮らしている。
今回も、元老院の挙動を警戒して、鷺の心に沿うこともティバーンの望みを叶えることもできずにいる。彼らを守るための選択のはずなのに、その本心を誰にも明かせずにいる。
「使者が戻って来たら、…また連絡する」
きっと戻ってこないぜ、とは喉元まで出かかってたが、なんとか呑み込む。いままで強硬に拒絶だけを示してきたものが、今回初めて、ほんのわずかではあったが、内心を吐露した結果となった。これ以上本心をさらけ出すわけにはいかない。
「せいぜいがんばってくれ」
こんなことしか言えない自分が悲しい。そんなネサラをどう感じたのか、ティバーンは一度離れかけた足を再び返して、ネサラの手を掬い上げた。
「次こそ俺の手を取ってほしい」
ティバーンが握った手首の先で、ネサラの指は空を噛む。
使者が帝都に着くのが恐ろしい。元老院はキルヴァスに内通を求めるだろうか。内通をした上で裏切れとでも言われようものなら、それ以上の苦痛はない。
体の表面はまだ温かく上気しているというのに、芯の方からまた冷え出したかのような心地がした。