百伝う

 鐸の音が聞こえる。
 クリミアの時告げの鐸は、濁った低音に始まって、次第に澄んだ高い音へと音色を変えながら、樹海を越えて国境間際のガリアの村まで響いて届く。
「昼時ですね。食事にしましょう」
 ガリアの民には関係のないはずの時報だが、従うように生活する者は少なくないようだ。
 昼食の場へ移動するように声をかけられたネサラは、翼を持ち上げる。しかし、その動きに逆らうように袖が引っ張られるのを感じ、思わずそちらに目をやった。
 立っていたのは小さな子供だ。少し伏せ気味の耳は猫のものだろうか。大きな空色の瞳がネサラを見上げている。何事か、としゃがんで視線を合わせようとするとそっと耳元に唇が寄せられた。
「あの鐸、夜中に勝手に鳴るんだよ。それを聞けたらいいことがあるんだ」
 とっておきの秘密だとでも言うように、囁く。そして、いたずらっぽく笑って、何かを聞き返す間も無く走り去ってしまった。
「随分懐かれたみたいですね」
 腰をかがめたまま呆然としているネサラを呼び戻した声はライのものだ。ネサラは立ち上がって苦笑する。
「代わりに肝心の施設の視察がなおざりだ」
 首都から遠く離れた村。その一帯では比較的人口も多いが、首都近辺とは比べるまでもない。理由もなければ訪問することもなかっただろう。
 ここにはいわゆる孤児院がある。ガリアがラグズ連合の一角を担った数年前の戦で身寄りをなくした子供たちが集められ、生活の仕方や化身の制御、言葉を使うことなどを日々身につけているのだ。国内には他にも数箇所同じ施設が作られたが、ここが一番都から遠い。
 鳥翼の国では学問所を設けようという話があがってはいるものの未だ実現はしていない。そこで鳥翼の王たるティバーンは、一足先に制度を整えたガリアの方式を参考にしようと思い立ち、使節が送られることになった。
 派遣された鳥翼の内政員とガリア側の案内者、仲立ちを兼ねてネサラも一団に加わっており、またライも同じように調整員として行程を共にしている。
 しかし、不慮の同伴者が一人いた。ライの隣に立っている男だ。
「存外子供の扱いに長けていて驚いたぞ」
 本来なら国の中央、王城にいるべき男。
 彼の言い分はこうだ。
「自分が治める国の端々まで己が目で見る必要がある」
 悶着は様々あったものの、結局彼の願いは聞き入れられて今日に至るのであった。
「……昔取った杵柄さ」
「それで、先の子はなんと言っていたのだ?」
「鐸が夜中にひとりでに鳴るんだと。あの鐸は普通は夜中には鳴らないのかい?」
 ネサラが問いかけたのは、少し後方にいたベオクの女だ。言葉の教師としてクリミアからこちらへと居を移したという。ガリアとクリミアの友好を示す、交換駐在員の一人だ。
「日が暮れたらそれ以降は鳴らしません」
「それでも鳴るというのか?」
「私の故郷でもあった話です。怪談のようなものですよ。その音を聞いたら呪われるとか不幸になるとか何種類かあるみたいで」
 先の話とは内容がまるで逆だが、それを尋ねる前にライがいつもの人懐こい様子で話題を受け取る。
「俺の子供の頃も似たような話が流行ってましたよ。海の方から誰も聞き分けられない遠吠えが聞こえる、聞いたら死ぬって」
「禁足地の奥から子供の歌声が聞こえる、なんてのは聞いたことがあるが、そんな物騒な話ではなかったな」
「どこの国にもあるものですのね」



「俺は怪談話など知らんぞ」
 日も暮れて、宿代わりの砦に腰を落ち着けたスクリミルはどこか不満げだった。昼間、彼を置き去りにして盛り上がってしまったことが気にくわないのだろう。出されたばかりの木の実の皿は、並んで座るネサラが手をつける間もないうちに空になってしまいそうだ。
「教えてくれる相手がいなかったからじゃないか?」
「どういう意味だ」
「この手の話は、同年代か少し年上の奴から教えられるんだ。でもおまえの周りに同じ年頃の子供なんていなかっただろう」
「……なぜわかる」
「その性格を見てりゃな」
 獣牙の民の中で、獅子の占める割合は非常に少ない。人口が増えることも稀だ。事実、スクリミルの誕生の前後数十年にわたって他の獅子の誕生はなかった。
 そのような環境で、喧嘩の練習相手ははるかに年上の虎の兵士や、化身もしていないジフカやカイネギスだった。怪談話に花を咲かせるのは難しかろう。
「それにこういうのは、子供が危険な場に近づかないように戒める意味も持っていたりする。夜中に外に出るな、海に近づくな、禁足地に近づくなってね。でもおまえはなまじっか強いから、そんな話を聞いても恐怖しないで見に行っちまうだろ」
「その通りだ。得体の知れぬ化け物でもいようものなら退治してくれる」
「おまえらしい」
 ネサラは杯を取り上げ中を覗き込む。澄んだ桃色の液体だ。舐めるように味わえば甘い。この周辺に実る果実を漬け込んだ飲料だという。教えてくれた子供のたどたどしい声は優しかった。
「怪談を語り合えるほどには、あの子達も言葉を習得してるんだな」
「無論、そのための場だ。教師も厳選を重ねた。孤児院などと謳われてはいるが、ただ子を庇護するだけの施設は必要無い。誰に教わらんでも狩りをして鳴き声で意思を疎通して生きていくのは不可能ではないのだからな」
「言葉が一番大事だって?」
 スクリミルは大きく頷いてみせる。動作の鷹揚さが、溢れる自信を表していた。
「多くの種族が共存するために最も重要なものであろう。ラグズとベオクという括りだけではない。ラグズ同士だって言葉は必要だ。俺とあんたで語り合うのも、言葉なしでは難儀するだろう?」
 問われてネサラは同意する。
「鷹の鳴き声ならわからんでもないが…獅子ともなると、お手上げだな」
「俺は叔父貴の方針で幼い頃より言葉を身につけた。当時は苦痛で仕方がなかったが、同じ立場になった今、叔父貴の意図がよくわかる。俺はそれをさらに広げてゆきたい」
 カイネギスの治世で地盤は作り上げられていたものの、国土全体での徹底にはほど遠かったようで、都仕えの獣牙の兵士の中にもまだ言葉に馴染めぬ者は多いと聞く。この村周辺でも鳴き声や唸り声でやりとりがされている様を何度も見かけた。
「あんたは誰に言葉を教わったのだ?」
「教わるまでもない。キルヴァスの民は、大半が現代語を自由に操る」
 どうしても伴う自嘲を切り離せない。キルヴァスの国としての至らなさを露見するに他ならない。
「俺が生まれる頃にはキルヴァスはベオクとの共生関係はとっくにできあがっていてね。言葉なしにじゃ国が存続することもできなかったのさ」
 貧しい国。傭兵を送り出す先にはベオクしかいない。契約するにも任を全うするにも、言葉によるやりとりが必要不可欠だ。
 そもそもーーネサラはさらに過去へと思考を送る。そもそも、そうなるようにキルヴァスを縛り付けたあの誓約が、言葉によるものだ。キルヴァスが言葉から切り離せようはずがない。
「…で、ほかにどんな怪談があるのだ」
「気になるか?」
「あんたもそれに怯えた子供だったのかと思うと、気になるのも仕方あるまい?」
「怯えやしなかったさ」
「強がりを言うな」
 スクリミルは座面に手をつき、楽しげにネサラの方へと身を乗り出す。その様子を見たネサラは、ニアルチに寝物語をせがんだ昔の己を思い出して、ふと笑ってしまった。しかしその情景は、この獅子の幼少の時分にはなかったことかもしれない。鳥翼族とは異なり夜目が効いて昼間よりも挙動が活発になるという獸牙の子供が夜をどのように過ごすのかなど想像もつかないことだ。
「禁足地で歌ってたのは俺なんだから、怯えようがない」
「なに?」
 怪訝そうな顔。たまらずネサラの頬が緩む。
「懐かしい話だ。あのころ滅多に鷺に会えなくて、禁足地でこっそり鷺の真似事をしてたんだ。ま、呪歌を謳うくらいしか思いつかなかったんだが。でも見回りの兵なんぞに聞きつけられるとは思ってなかった…いや、そいつは任を全うしただけなんだから非難されるいわれはないな」
「……いろいろ尋ねたいことがあるのだが」
「気にすることじゃないさ」
 はぐらかすように手を振るが、スクリミルは表情を曇らせたままだ。腕を組んで難しい顔を作っている。
「そんなに気になるなら答えてやらんでもないがね」
「なぜ禁足地に立ち入れたのだとか、一体いつから鷺と付き合いがあるのかとか…いや、答えんでいい」
 その程度なら簡潔に答えられるだろうとネサラは口を開きかけたが、制止を受ける。
「そういえばそもそもなぜあんたが鷺の王族と懇意にしているのかも謎だ」
 ひとしきり唸るとスクリミルは腕を解き、背もたれに寄りかかって大きく息を吐いた。
「俺はあんたのことをまるで知らんのだなあ」
 気落ちしたような声が放られる。寄こされた眼差しには多少の困惑が滲んでいる。予想外の反応に、ネサラも面食らって笑みが引っ込む。
「知りたいか?」
 ためらいがちに尋ねると、スクリミルはネサラの顔色を窺うようにしばらく見つめてから、小さく肯んじた。
「だが、あんたから直接聞くつもりはない」
「え?」
「ニアルチ老や鷹王に当たった方が、あんたが話したがらないような面白い話を聞けるだろうからな」
「…勘弁してくれ…」
 思わずうなだれて額を押さえると、スクリミルが笑い声をあげる。
「楽しみだ」
 すっかり機嫌をよくしたようで、ネサラの背中、翼の付け根の真ん中あたりを気安げに数回叩いた。
「あんたも俺のことが知りたければ叔父貴あたりにでも訊いてくれ」
「……そうさせてもらうよ」
 スクリミルに王位を譲って以来隠居を決め込んだカイネギスには久しく会っていない。新王には公私を問わず世話になっている身だ、一度ならずと挨拶にでも行くべきかもしれない。とはいうもののどう接したものだろう。互いに王だった時分には、友好的とは言い難い対応をしていたものだが。
 思わず眉をひそめたネサラの思案を断ち切るように、スクリミルはその肩に手を乗せ己に引き寄せた。
「なんだよ」
「呪歌はもう謳わんのか?」
 深い意味など持たないだろう問い。しかしネサラの心の内側から押さえ込んだはずの棘が起き上がるきっかけには十分だ。
「どれだけ鴉が音を覚えて詞を真似たところで呪歌にはなりゃしないさーー紛い物にすらならない」
 無意識に口の端に上るのは自嘲だ。生涯通して偽ってばかりいる。王位に就くずっと前から本物には程遠い似姿にばかり触れてきたこの手。
「別に呪歌でなくとも良いのだが」
 スクリミルはネサラの感傷になど気がつかない。
「あんたが歌うのを聴きたい」
「え?」
「特別な効力など求めはせん。その音と詞を、あんたの声で聴きたい」
 信じられない物言いだ、と思う。鷺だけが特別に持つ力、それを発揮するための歌、関わる全てをないがしろにするような。しかしそう感じるのは、鷺の神秘性に、生まれた時から身近に触れてきたネサラだからこそなのかもしてない。
 ネサラが捨て去ることができない鷺への畏怖を、少なくともスクリミルは抱いていない。己が触れることで鷺の絶対唯一性を侵してしまうだろうという身を切るような罪悪感を、彼は知らない。
「あんたの言葉はきれいで豊かだ。歌ってもそれは損なわれまい」
 続く声には耳を疑う。聞き返すのにも勇気がいる。結局口に出せたのは片方のみだった。
「…豊か?」
「多くの言葉を当然のように扱うだろう?それが浮つかずにしっくりくる。あんたの実感や経験は豊かさそのものではないか?」
 ネサラは半ば呆然としながらスクリミルの言を聞く。きれいも豊かも実感のない言葉だ、使い慣れぬ、全くしっくりこない言葉。
「なんだ、俺は言葉を間違えたか?叔父貴に怒られるかな…こういうものはなんと言えば良いのだ?」
「俺が、知るかよ」
「それもそうか、俺の言いたいことが伝わっておらんのだものな」
 スクリミルは他の言葉を探し当てようとしばらく苦慮していたようだが、結局それを諦めたのか、首をふるってネサラに向き直った。
「俺の言葉選びはどうあれ、あんたの歌はいいものだろうよ。聴かせてはくれんか?呪歌もどきでも、鴉の求愛の歌でも、種類は問わんぞ」
 鳥翼は求愛のために歌ったり踊ったりするのだろう?などとどこで得たのか知れない風習を持ち出してくる。
 嫌いではない、むしろ好ましい。姿を持たぬものに雁字搦めにされてきたこの身を解き放ってくれるような言葉。
「ここのところずっと聴く側だったからなあ」
 眼前に広がる赤い癖毛を指先でいじりながら独白すると、その手を取られて頬ずりされる。次いで掌に押し付けられた唇が、薄く開いて呼気が漏れる。
 暖かく甘やかな空気、照れと期待で思わず喉を鳴らしてしまう。
「……」
 何を言うのだろうと思って待っていたが、スクリミルはネサラから目を逸らして窓辺を見遣る。耳が根元から角度を変えて数度捻るように動いた。
「…どうした?」
 尋ねるネサラにすぐには答えずに、脇の下に手を差し込んで黒衣の体を軽々と持ち上げ、自分の膝に座らせる。抱きつくように腰に両手を回して組んだ。
「鐸の音がしたような…」
 ふと触れた腕の産毛が逆立っていて、警戒が強まっているのが知れる。ネサラも耳をすましてみるが、砦の内も外も静かなものだ。
「気のせいじゃないか?」
「そうだとよいが…聞けば不幸になるなどと脅されてはな」
 宥めるように毛の流れに沿って撫でてやるが、まだしばらくは落ち着かないままだろう。
「迷信だろう?」
「あんたは気にならんのか」
「だって子供が言ってたのは…っ!?」
 身の内から理由のしれぬ悪寒が沸き起こり、ぶわ、と翼の根元から総毛立つ。
 窓の外が一瞬明るくなった気がした。その直後に張り裂けるような轟音が鳴り響き、ネサラの喉から漏れた間抜けな悲鳴も掻き消されてしまう。
 翼の筋肉が縮こまって背に張り付く。ネサラは思わず目の前の肩にしがみついた。空を割る大音声は尾を引きながら遠ざかってゆく。
「…雷か」
 ネサラの頭を己の肩口に押し付けながら、スクリミルは呟いた。ごろごろと空が低く鳴く音が今は聞こえる。
「王、御身ご無事ですかっ?」
 強く扉を叩かれ、慌ただしい兵士の声が投げかけられる。
「ああ、問題ない。俺も外交官殿も、ついでに部屋も無傷だ」
 走り去る足音を聞きながら、ネサラはきつくつむっていた瞼を恐る恐る開いて周りを見聞する。スクリミルの言う通り、室内に異変はない。落雷先は砦の近辺だろうが、直撃はしなかったようだ。
 スクリミルはネサラの肩を支えて起こす。顔色を確かめるように覗き込んで、額から頬までを揃えた指先で軽くなぞった。
「怖かったか?」
「そりゃ、まあ」
 まばたきが止まらない。身体中を心臓が跳ねまわっている気分だ。
「雷が不幸の正体だったというのはあり得る話だな」
 でも、とネサラは口ごもる。子供の間の流言、戯言。彼が嘘をついたわけではなかろうが、戸惑いが隠せない。
「あの子は『いいことがある』と言った」
「全く反対ではないか」
 ネサラは服の上から胸を押さえながら、頭の中でこだまする雷鼓を追い払うように言葉を紡ぐ。
「ことの因果なんて、ひとの心ひとつでひっくり返る。雷が原因で何かよいことがあれば、そういう話として語られるのも頷けるがーー」
「ほう?」
「雷のおかげで起こるいいことなんて、想像もつかないね」
「ふむ、俺は今少しその迷信の発祥に心当たりがあるぞ」
「なんだって?」
 ネサラにとってーー鳥翼にとって、雷は恐ろしいばかりの自然現象だ。飛来中に突如発生し、撃ち抜かれてはまず命はない。森で高い木々に囲まれる獣牙とは感覚が違うのかもしれない。
 スクリミルが口元を緩めているのがばかにされているようで気に食わず、棘のある声を発してしまう。しかし毎度のことながらスクリミルはネサラの声色など知らぬふりだ。
「誰に聞くでもなくあんたについて新しく知れたのでな」
「…なんだ、それは」
「あんたについて知りたいと思っていたのだから、なるほどよいことだ。そうだろう?」
「……迷信なんて、そんなものか」
 皮肉の一つでも投げつけてやりたい気分だったが、まるで無駄に思えてネサラは肩の力を抜く。
 落ち着きを取り戻してみれば、落雷前と変わらず自分はスクリミルに抱きしめられているし、触れ合う腕は温もりを求めているし、見つめ合えば視線に沿って柔らかな空気が流れる。
「怖くて一人じゃ寝られないな」
 ふ、とスクリミルにつられるように笑んで囁けば、スクリミルは眉を上げて驚いた顔をする。そしてすぐにまた目を細めて喉の奥から笑い、翼ごとネサラをかきよせて立ち上がった。
「俺が子守唄でも歌ってやろう。安心して眠るがよい」
「おまえが?歌えるのか?」
「当然だ」
 湧き上がる喜悦が鼻と喉の間から笑い声となって溢れ出す。
 これから訪れる優しい時間も、雷の功名だということになってしまうのだろうか。
 誰の耳目にも届かぬ安らぎを、ネサラは手ずから迎え入れるのだった。