頬を撫ぜたほの冷たい風に顔を上げると、スクリミルが窓辺に立って外を眺めていた。鬣とも形容し得る豊かな赤い髪がふわふわとそよいでいる。
「…閉めてもらえないかね、夜気は苦手だ」
スクリミルはそれには応えず、視線と次いで顔をこちらに向けて、その場からネサラを手招いた。ネサラは少し迷ってから、走らせていたペンを脇に置き、椅子から立ち上がる。
「星がよく見える」
静かに隣に添い立つと、スクリミルは軽やかな声で言ったが、ネサラは苦笑を漏らすしかない。
「鳥の目のこと、忘れてるだろ」
「あんなに眩いのに見えぬのか」
「全然」
言い切ってしまうと、残念そうに眉がひそめられる。スクリミルが示した斜め上空に視線を彷徨わせるが、ずっと暗い闇が広がっているだけだ。いつかベオクの旅行記で読んだ、濃紺の海に散らした白砂の輝き、その欠片も見取ることができない。
「じゃあどこまで見えるのだ?あそこの幹が白い木は?」
「どれだよ」
続けてあれは、これは、と尋ねられるが、どれもわからない。ネサラはため息をついて、夜陰に気を取られたままのスクリミルの頬を突いた。
「これなら見えるんだがね」
「ここは十分明るいではないか」
憮然とした声が返ってくるが、ネサラとしても見えないものの話を延々とされても面白くはない。
顎を彩る髭の端まで指を滑らせ、離し、そのまま流れるように外へと手を差しのばす。
「見えてもここまでだ」
桟から身を乗り出し、開け放された木枠に手をかけ、引き寄せる。軋む音を立てながら蝶番が回る。大きな音を立てて窓が閉じた。取っ手を捻って錠を下ろす。
気勢を削がれたスクリミルは、心持ち不機嫌そうだ。
「鳥翼は不便だな」
「代わりに翼がある」
意地悪く笑いながら答えると、スクリミルはネサラの肩越しに翼に触れた。手のひらがじわりとあたたかいのが心地よいが、羽毛の流れに逆らって撫でるので、そわそわとくすぐったい。
「そこだけでいいのか?おまえ、翼触るの好きだろう?」
誘うように大きく風切羽まで広げると、視線が外形を舐める。
「この色は」
無骨な手指が、羽の一枚一枚を確かめるように優しく動いていく。
「夜の闇よりなお暗い」
「そうなのか?」
スクリミルは頷きながら、ネサラの腰を抱き寄せた。首筋に唇を落とし、這うように頬骨まで撫で上げる。鼻腔をくすぐったにおいから情の起こりが伝わってきて、応えるように肩から背中へと腕を回す。
「あんたの瞳も」
そう言いながら押し付けるだけの厚く柔らかい唇を捉え、食む。
「夜より深い闇だなんて、光栄だね。呵責なく悪事を働けるってもんだ」
「まだ何か悪どいことをするつもりでいるのか?改心したものだと思っていたが」
「理由があれば、いくらでも」
「懲りん奴だな」
いたずらが過ぎる子供のような扱いに、笑みがこぼれる。それを合図にしたかのようにスクリミルはネサラの下半身ごと抱え上げて歩き出した。落ちないように頭に寄せる腕に力を込める。途中途中で唇を重ね合わせながら、やがて部屋の一角の寝台に降ろされる。
お互いの衣服を脱がせ合うのも手馴れたものだ、もともとスクリミルの服は簡単に着脱できるようだが、ネサラの服はそうはいかない。しかし、胸元や腰の金具を外すのにはじめのうちは難儀していたようだが、最近ではそれもなくなってきた。
口づけを深めながら、二人は順番に下の衣まで取り去った。
敷き詰められた布団を調整して、翼の根元が痛まないように背中を預ける。それを確認した後で、スクリミルは手近な燭台の火を吹き消してしまった。
「あ、はぁ、っあ…」
飲み込んだ熱がゆっくりと動くのに合わせて、ネサラの内から声が漏れ出る。覆いかぶさる体躯にしがみつくように腕を絡ませながら、眼差しは空を泳ぐ。向かい合う形で抱き合っていても、闇の中では面持ちをうかがい知ることは叶わない。
汗ばんだ背中に回した手に力を込め、腰を浮かせて抱きつくが、スクリミル自身の根本までは飲み込めていないことに、ネサラはいつからか気がついていた。
じっとりと温かい手のひらがネサラの背中から腰、腹部まで撫で追って、その緊張を解していった。再び柔らかな布に沈んだ体に、スクリミルは丁寧に舌を這わせていく。
「ん、……」
時折、舌体が辿った痕跡を残すように、がり、と上下の門歯が食い込む。皮膚ごとこそぎ取らんばかりの摩擦に、体の中心から湧き上がる疼きが増す。噛んでは舐め、噛んでは舐めを繰り返しながら、スクリミルはネサラの身体中を支配する。
「っつ!」
犬歯が突き立てられたのか、ひときわ鋭い痛みを得、翼が強ばって一瞬広がった。
「…悪い」
反応の違いを察知したのか、荒い呼吸と合わせて体温が一身分引いていく。喪失感が胸をついて、たまらず手を伸ばす。頭を抱き寄せて、行き当たった縮れ髪に指を絡ませ、たどたどしく顔の輪郭を辿り、口づけを求めて頬を寄せた。
「ちがう、もっと」
掠れた声でそう囁くと、スクリミルは顎を舐めてから唇を捉えた。
「ぅく、ん…っふ、」
ネサラに息継ぎを与えるように何度も間隙を挟みながら、深く舌を潜り込ませていく。滴る唾液を飲み込んで、甘やかな感覚に酔いしれて目を瞑ると、スクリミルは休めていた抽送を再開した。
ぐちゅ、と水気を含んだ音が聞こえる。伝い落ちた先走りと、スクリミルが零したそれが後孔近辺で混ざり合う。肌と肌がぶつかり合う音、スクリミルの呻きの混じる忙しない呼気。自分の喉が発する上ずった喘ぎ。それらを遠くに感じながら、体の真ん中は与えられる快楽を享受する。擦り上げる熱塊を、内側の一襞一襞が招き入れて閉じ込めたいとひくついている。
押し上げられるたびに体がずり動いてスクリミルから遠ざかってしまう。懸命にスクリミルの厚い肩に指を立てても、自らが非力なのか、どうしても滑って留まれない。
「…ネサラ、」
「っ…な、なに」
「あんまり、離れるな」
「んな無茶な…」
無体さに反論しようと思ったが、途切れなく奥を突かれては甲斐もない。苛ついた様子でスクリミルは左右の小雨覆に手をかけ、翼を寝台に押しつける。筋が圧迫される感触に思わず顔をしかめたが、気を止める様子はない。
「待っ、痛、い」
スクリミルが動くたびにごりごりと腱が捻れて悪寒が走った。ばさばさと可能な限り翼を動かして抵抗しようにも、それすら障る。突き上げる衝動はネサラの胸の内を充して余りあるが、翼の痛みがそれを邪魔する。ほぼ全ての体重が、そこにのしかかってると言ってもいいほどの圧力に思えた。
「手、どけ、ぃあ、っあ、て…っ」
しかし、懇望の言葉も、寄せ続ける愛念に綯い交ぜになって攫われてしまう。溢れ出る声は正体を留めない。本当に痛いのかもわからなくなっていく。
不意にスクリミルの吐息がネサラの首筋を掠め、刺激が深く食い込んだ。一瞬呼吸が止まる、だが、不快さはない、むしろ好事だとさえ。
視界は晴れずとも、薄い肩口が感じる歯、唇、その隙間から漏れ出た息遣いさえもが、皮膚に鼓膜にひたすら甘かった。
身を清めて寝台へと戻ると、待っていたスクリミルは不満そうに唇を尖らせた。
「なんだよその面は」
尋ねた声は頼りない。数度咳払いをしても、元の調子に戻るまでには幾許かの時間を要しそうだった。
立ち止まったネサラの、整えられた衣服を上から下まで見回して、なお拗ねた子供も斯くやといった顔をする。
「相変わらず外目には出んと思ってな」
隣に腰を降ろすと、手がネサラの胸元へと伸びる。思わず身を引きかけた襟を掴まれ、引っ張ってはだけさせられる。
そこにはしっかりと、スクリミルの歯跡や、それに沿うように浅黒く滲んだ内出血が現れていた。
「痛いんだぜ、本当に」
「悪いとは思うがやめられそうにない」
「…わかってるよ」
傷跡に唾液をこすりこむ仕草が、獅子の、ひいては獸牙の性だという忠告を受けたのは、記憶に新しい。実際鳥翼の身の想像では甘かったと知れたのも、また最近のことではある。
両方の前身頃を開いてつらつらと傷口を眺めると、頭を屈めてそこに鼻を近づけた。
「まだ足りんか」
「え」
「いや、なんでもない」
物騒な、なんでもないはずのない独り言に、ネサラが思わず身をすくめた一方で、スクリミルはその上衣をしっかりと元に戻した。飾り紐の結びが怪しいので骨張る指から掬い取って、自分で結ぶ。
「あとな、ネサラ」
「うん?」
紐の撓みを整えながら返事をすると、顎をとられてスクリミルと見つめ合うように首が捻られる。
「できればあんたも同じようにしてくれ」
「…え?」
指の力加減を違えてしまい、紐の結び目が崩れたのを感じるが、目線だけ動かしても確認できそうにない。
「なに、を」
おそるおそる尋ねると、空いている手で肩をとんとんと叩いて見せる。
「ここなりどこかなりに噛み付いてだな」
無茶とも思われる要求に戸惑いが先立って言葉をなくしてしまう。
「あんたの印か何かを残してくれ」
「え…っと……」
スクリミルの言うことを理解できはしたが、叶えてやれる自信はない。そもそも現状では受け入れることでいっぱいいっぱいで、それ以上のことをネサラから進んで行うにはまだまだ場数が必要なのだと、果たして白状したところでわかってもらえるだろうか。
「……嫌なら無理強いはせんが」
ネサラの反応の悪さに一言付け加えたスクリミルはしかし、見るからに落ち込んでおり、こちらがいじめているような心地がして落ち着かない。
「嫌ではないが」
嘘にならない範囲で返答すれば、ちらりとネサラを見遣った瞳が輝く。巨躯に見合わずに腕白小僧を彷彿とさせる言動は相変わらずだ。
「慣れないから、時間をくれ…」
かろうじてそう言うと、満面の笑みが返される。心底嬉しそうで、この目紛しく変化する表情が、ネサラの心をつかんで離さない。
「待つのは不得手だが、あんたのためなら、苦ではないか」
「まぁひとつ頼むよ」
「それはこちらの台詞だな」
豪快に笑う声、夜に聞くものとはあまりにも隔たる。どちらも捨て難い、と目を細めて聞き入っていると、「何を考えている?」と突っつかれたので素直にそう答える。
「あんたもそうだろうが」
「!…っ」
当然の指摘に羞恥が込み上げて、いたたまれなさに目をそらす。
「昼間は何かと取り繕った顔をしているが、灯を消すと、随分甘えた目つきになる」
昨晩は「鳥翼の目のことを忘れている」とスクリミルを詰ったくせに、ネサラも獸牙の夜目の利きを失念していた。ネサラがスクリミルの唇を探して惑っていた様子も、得られてすっかり安心していたのも、何もかも、見えていたのだ。日の下では表情も手指の一本の動かし方すらにも注意を払うのだが、闇の中では気を抜いてしまう、この悪癖。
今度こそ恥赫きが表面に出て、頬が熱くなるのを感じる。口を開くが言い訳も出てこない。
「照れているな?」
「、るさい」
「もうこの際取り繕わなくてもよかろうに」
「俺の勝手だ!」
慌てて先ほどしくじった飾り紐を直しにかかるが、動揺が指先にも現れてしまって、うまくいかない。スクリミルが求めるまでもなく、ネサラの表層は崩れつつある。それに気付いてか気付かいでか、スクリミルは肩を抱き寄せてその蒼髪に鼻先を埋めた。