誰にも

 初めて触れたその紙のあまりの軽さ。ぞんざいに押し付けられた掠れた血判に、どれほどの命と心が失われたことか。握り潰しても破り去っても溜飲が下がることは決してなく、為す術もないネサラは誓約書を懐にしまい込んだ。力の籠らない目で空を見つめ、署名の字面を思い浮かべる。
「出られなくなっても知らんぞ」
 宙に浮いた石床の隅、柱の影に隠れるように座っていたネサラの耳に、確固たる言葉が届いた。それは短くない道中をつれそってきた声だ。当初は敵意と憎悪も露に吠え罵られたものが、時を共にする間に向き合えるようになっていた。今の声音も、極めて静穏だ。どう答えたものか考えている間に、獅子はもう一言を告げる。
「皆行ってしまった」
 女神の力によって内部の構造が歪められた塔であったが、彼女が姿を消して少し経ったいまでもその様相に変わりはない。しかし、不可知の力を懸念して、誰ともなく急いで階段を降り、塔から一度出ようとしているところだった。気がつけば周囲には誰の気配もなくなっている。
「おまえに見つかるとはなぁ」
「じゃあ誰に見つけてほしかったのだ」
「……誰にも…」
 想定してしなかった問いかけに、面食らってしまう。
「だったら、この俺に見つかるのは当然だろう。獣牙の鼻を甘く見るな」
「それもそうか」
 特定の誰かに追ってほしかったなら、確かにそれなりの痕跡を残しただろう。それをせずにただ気配を殺し、誰もの視界からはずれ、うまく溶暗できたと思ったが、においを消すことは容易くない。勘付いて辿ってくるのなら、獣牙族は役に適いすぎていた。
「それで、どうしてそこにいる?」
 続いた問いは尤もだ。
「どうして…」
 繰り返しながら、ネサラは空いた掌を開閉してみる。少し前までこの空間に満ちていた、痛いほどの緊張感はもう微塵もない。人の声も呼吸も熱もない。
「ここは静かで…」
 四方に壁はないのに、ささやきさえ反響しそうな静謐さ。そこここにわだかまる正の気はネサラを戒めるに十分だったが、それでも時間が欲しかった。
「……何もないから…」
 裁きが正され、世界が蘇ったいま、塔から出たネサラを待つのは別の裁きだ。服の上から誓約書を撫ぜる。誰に何をどう語るべきか、まだ決心が着かずにいた。開き直って傲慢に振る舞うのも、頭を垂れて許しを乞うのも、ふさわしいとは思えなかった。
 戦闘の余威から離れて人心地ついた今、現実を顧みて、少しの後悔がある。まるで逃げ出してしまったかのような己の行い。事実、この後に控える様々からの奔竄に他ならない。
 黙して惑うネサラの背後で気配が動いた。柔らかな足音が近付いてくる。
「考え事をしていた?」
「…心の整理が着かないことがたくさんあるのを、収めたくて」
「それなら…うおっ!?」
「!?」
 返事をして振り返った目の前で、スクリミルの右足が宙を掻いた。床を踏み外したのだ。上体が揺らぐとともに重心がどんどんずれていってしまう。腕が慌てて柱を追い縋り、装飾の窪みに指を引っかけて踏ん張る。我に返ったネサラは羽ばたいて、すぐ隣で落ち行こうとする体を押し戻そうと試みた。
 なんとか後背の床にまろび込んだ二人は、揃って大きく息をついた。
「何、やってんだ!」
「……もう、一歩分よりも、あったと思ったのだが、」
 尻餅をついたスクリミルは、ひどく驚いた様子で呼吸を弾ませる。
 女神のいない綻びだろうか。件の床を視認してもおかしな部分は見当たらないが、これがその歪みだとするなら、確かに急いでこの場を後にしなければならない。
「勘弁…してくれ」
 しかし、腕は震えるし、足も萎えてしまっている。スクリミルのすぐ前でへたり込んだまま、まともに立ち上がれそうになかった。心臓が早鐘のように鳴り続けている。
「俺はおまえを抱えてやれない」
 下に広がっているのはどこにも繋がっていないであろう闇のみだ。この塔の内部は、女神の用意した階段を辿らなければ、どこにも行けないのだろうと思われた。ネサラは翼を持ってはいるが、その得体の知れない空に飛び出す気などしない。
「向こうにいれば、俺に見つかることもなかったかもしれんな」
「え?」
「あの向こう側だったら、嗅ぎ付けても見つけられん」
 指差したのは闇の最中、ぽつりぽつりと浮かんだ階や柱の影だった。
「あっちは……さすがにこわいな。戻って来られなくなりそうだ」
 スクリミルは意外そうに目を丸めてネサラを見た。そして、脳内で何かが繋がったのだろうか、不意に「そうか」と呟いた。
「死にたいとか、消えたいわけではないのだったな」
「そりゃ、もちろん」
 戸惑いながらも肯んずると、スクリミルは困惑を滲ませながら微笑んだ。
「俺もあんたを信用すればよかった」
「信用?」
 次いで出た単語は、スクリミルがネサラに持ちうる感情の内で最も縁遠いものの一つに思われた。
「あんたの進退に関わる者たちが、この期に及んであんたの不在に気付いてないわけがない」
 その言葉が指すであろう王も皇帝も、特別鋭い感覚を持っている。あるいは鷺も、同じ境遇に立たされた巫女も、ネサラに気をかけ得る存在だ。であればこそネサラも慎重に彼らから遠ざかった。
 彼らは塔の最下階に着いただろうか。あるいは外に出てしまった頃だろうか。
「あんたはまだずっと王で、もうしばらくそのために働かねばならないのだから、この塔の中に留まる恐れなど万にひとつもなかったのだ。必ず出てくると、皆が信じている。ここにはあんたの民はいないから」
「信用?…それが?」
「信用以外の何だというのだ?あんたがどれだけ民を思っているか、少なくとも俺は知っている。俺が知っているということは、もっと多くの聡い者も知っているだろう。その思いが俺たちに、あんたが信じるに値する王なのだとわからせてくれている」
「——…」
 喉の奥がつっかえたように声が出ない。スクリミルの目前でその面差しを食い入るように見つめてしまう一方で、自分の表情を繕えなくなっていた。情けない顔をしているだろうが、それを変えようにも力が入らない。
「だから皆、待っている」
 力強く言い切るスクリミルは常と等しく自信に満ちている。その確かさで、しばらくネサラが手にできずにいたものを押し付けてくる。捨て去ってしまって、取り戻そうともしなかったものだった。
 相変わらず塔の内部は静まり返っていて、ネサラにはスクリミルの言葉と向き合う以外の選択肢がなかった。
 この空間に充ち満ちた孤独を、そのような形で捉えられるのは、どうしてだ。
「わからない…」
 やっとのことで否定を絞り出すが、下唇がわなないて止まらない。
 己に向けられた感情に、あるはずもないものだと思った。自分ですら自分を信じられなくなるような、長い間つきあってきた怒りと憎しみと疑念と不信以外の、裏切りの重さが変わらないのと同じく、永劫取り戻すことのできないはずのまっとうな感情が転がり込んできて、ネサラは受け止め方もわからない。何もかもが軽すぎた。受け止め損ねたネサラは、こらえきれずに、右の瞼から滴を零した。
「っ…」
 頬を伝い落ちた涙は床石に一直線に吸い込まれていった。続けて右から左から、ぽろぽろ止めようもなく落ちていく。スクリミルの目が見開かれたことに気付いて、慌てて顔を逸らして手で覆うが、間に合わない。
 時も場所も状況も、最悪だと思った。
 涙など、同情を乞う手段だとしか思われないだろうに、一番ふさわしい場面で泣いてしまう、己の心根の浅ましさに吐き気すら覚えた。
 もちろん故意の涙ではないが、これでは軽蔑されても仕方がない。
 スクリミルの手が伸びてきて、涙にまみれたネサラの手指を搦め捕った。顎を掴み寄せて、視線を合わせる。視界が滲むのを数回瞬いて晴らすと、スクリミルの表情は優しささえ読み取れるほどに柔らかかった。
「…泣くのはまだ早いのではないか」
 そう言いながら、ほのかに残る水滴ごと頬を撫で、両手揃ってネサラの顔を包み込んだ。
「だったら、いつが、いいかね」
 外に出られなかった滴が、目から鼻を通って喉まで届く。飲み下しても、喉のひきつりは潤わない。
 スクリミルは応えぬまま、親指が決して弾力の豊かではない頬や薄い涙堂を軽く押すなど遊び始めた。
「……」
 子供のようだ、と思う。子供同士の、戯れのような。
 許されるような気がして、ネサラはスクリミルの額の印に指で触れた。そのまま下へと続けて、鼻の先端までなぞる。
「約束が欲しいな」
 ふとスクリミルが呟いた。約束、と唇だけ動かすと、頷きが返ってくる。
「次にあんたがもう一度ここに収まるときまで、誰にも涙は見せないと」
 次に会うことが叶うかどうかも知れないのに、そのようなことを言う。
 しかし、言葉の向こう側には、長いこと訪れなかった安息が顔を覗かせていた。
「……誰にも?」
 声を潜めて確かめると、迷いのない答えが返ってくる。
「誰にも」
 動く唇に触れながら、ネサラはその欠片を手に入れた錯覚に陥った。