砂漠越えは体にこたえる。特にこの隊は女性が多い。軍務に就く以上男女の別はないものと考えているが、サナキやリアーネなどは軍人ではない。本人らは休息を望むそぶりを見せなかったが、ネサラやサザの進言があって、一行は女神の塔を眼前にして休息をとることにした。スクリミルにしても、気が急いてはいたが、体調を万全に整えるのは必要なことだと受け止めた。
砂漠の北側では積雪が見られていたが、南側のこの街ではそれがない。ベグニオンの版図の広大さに思い至って、スクリミルは小さく唸った。戦が始まってからこちら、己の無知や考えの枠の小ささを自覚させられてばかりだ。前の戦の成果であろう人脈を駆使して、スクリミルの無謀すら補佐したライにはいくら礼を言っても足りないだろう。しかしその彼はいま別の隊で同じく帝都を目指しているところだ。ここにはいない。他の獣牙も、ここにいない。
物思いに耽りながら、あてもなく、連なる市場の天幕の間の道を歩いていたが、ふと漂う香りに顔を上げる。いつのまにか天幕は途切れていて、枝がちの木が立ち並んでいるのが目に入った。その根元に、人影が一つ。白茶の枝から木の実をもぎ取って、口に運んだその男。
「食えるのかそれは」
「!」
ネサラは振り向いて、スクリミルの姿を認めると、赤い実を一つもいで差し出した。受け取って匂いをかくが、さっき気付いた甘い香りとはちがう。指の関節一つ分の大きさしかないその実が危険なものではないとわかったため、口に含んで噛み潰す。
「っ、ぐ、にがっ……」
「……味の保証はしないがね」
「言うのが、遅い!」
くだけた実を地面に吐き出して、素知らぬ顔をしているネサラを睨め付ける。
「熟すと黒くなるんだ。赤い実はとてもじゃないが食えたものじゃない……この木の実、ガリアにはないのか?それとも獣牙はこんなもの食べないのか」
スクリミルは、漱ぐ水もなく口内に残る苦みを嚥下するしかない。
「食わんな」
「そうかい」
「あんたは食うのか?それとも鷺姫のための知識か」
「まあね。セリノスではよく見たものだ。冬に実をつけるのは重宝する」
言いながら手を伸ばした前は黒い実だ。指先でつまんで、スクリミルの唇に押し付ける。薄く口を開くと転がり込んできて、上顎と舌で押しつぶすと確かに甘みが滲み出た。同時に広がる香りは、先ほど感じたものと似ている。上方に咲いている白い花の香りなのかもしれない。
「なあ」
呼びかけるネサラを見ると、彼はおもむろに舌を突き出した。桃色の舌が黒がちに染まっていて、驚くほかない。瞠目したスクリミルに対し、ネサラは楽しげだった。
「おもしろいだろ。おまえもなってるぜ」
思わず唇を引き結んでしまう。未熟な実を食べれば苦く、熟した実は口を汚す。とんでもないものを食わされたものだ。
「昔はこれでよく遊んだものだ」
ネサラが擦り合わせている指先にもうっすらと色がついてしまっている。
「……傷はもういいのか」
一杯食わされた不信感を顔にそのまま出しながら、スクリミルは尋ねる。
「え?……ああ、まあ、すぐに巫女に治してもらったし……」
「あんたは…勇敢なのか無謀なのか、わからんな」
ネサラがあの重大な傷を負ったのは、グラーヌ砂漠での戦いの最中であった。
砂漠でも足を取られず自由に動き回れる天馬騎士や鳥翼の民は、弓矢を天敵とし、クロスボウを持つ勇士などは最も避けるべき相手とする。しかし、ネサラはその相手が現れるや否や、向かっていった。スクリミルが止めようとしたときにはもう決着がついており、敵を屠りはしたものの、ネサラ自身の翼も大きく開いた裂傷から血を流すに至っていた。後背に控える剣士にネサラが遅れを取るとも思えないが、羽ばたきには力がない。慌てて駆け寄って、背中に庇うように引きずり降ろす。幸いなことにミカヤの魔力が届く限界に間に合ったようで、すかさずリブローの癒しが得られて安堵した。
「なぜ、あんな無茶をした。俺に任せておけばよかったのだ」
「おまえの足じゃ届かなかっただろ」
「それは、そうだが、なにもあそこまで無茶をして倒さねばならない局面ではなかったはずだ!」
「おまえにしてはまともな正論だな」
はぐらかすような言いようには腹が立つ。直後に慌てふためいたニアルチに説教を頂戴していたのは目撃していたし、スクリミルがいまさら怒る必要もないが、腸が煮えくりかえるのには理由がある。ネサラは眉尻を落として、顔をそらした。
「助けてもらったことには感謝してるさ」
「……なんだと?」
「………」
どう返事をしたものか迷って、結局聞き返したスクリミルに対してネサラは口を一度閉ざす。
「突然降って湧いた負の気に当てられたような心地がした。冷静になれば、対処は後でもよかったってわかるのにな。おまえにもできた判断が、あのときの俺にはできなかった」
再び口を開いたネサラの声を、スクリミルは受け入れる。そして、ふと思い当たった理由を、確認するように訊いてみる。
「死んでもいいと、思ってはいなかったか」
はじかれたようにネサラはスクリミルと目を合わせる。瞬きを数回してから、ネサラの瞼が伏せられた。
「それは、ない。俺には…責任がある。きっちり全部に決着をつけるまで、死ねない」
「死ねば全部関係ないのにか」
「それでいいと思えるか?民の将来が全て己の双肩にかかっているのに」
頷くことはできなかった。結局スクリミルは王ではない。鴉王の背負う重圧を、想像すら出来ない。この戦における鴉の犠牲を、スクリミルは知らない。ガリアに残った獅子王はどうしているのだろうか。まさか石になってしまったとは思い難いが、動かなくなった民を見て、何を思うのだろうか。
「……おまえはよくもつな」
ネサラの声は弱い。意味を取りかねて続きを促す。
「この隊には獣牙がいないのに、よく気が続く。こんな先の見えない戦いで、果たすべき責任もないのに、よく」
「俺がそんなものに惑わされて臆すると思うのかっ?」
存外大きな声が出たが、ネサラは姿勢も変えない。視線だけが動いてスクリミルに集約する。
「……近くに部下がおらずとも、関係ない。帝都で合流したときに、ガリアに戻ったときに、俺は武勇を誇らねばならない。ここで退く理由はない!」
見つめる黒い瞳に反応はない。
「俺は王になる。やがて責任を持たなければならない民を、いま見放すことは決してしない。そういうものではないのか?」
「……そうだな。王位を望まれる身は、そうでなくてはならないな」
「それに、今の俺にも責任がある。あんたを鷹王の面前に引き出すまでには死なれるわけにはいかんのだ」
「だからあのとき俺を助けた?」
相変わらず囁きに近い声での問いかけに、助けた前後で考えたことを思い出そうとする。曖昧な記憶であったが、その責任のみに駆られたわけではないと、直感した。
「それもある」
「他に何かあるのか」
答えたかったが、言葉にする術を見つけられず、吸い込んだ空気を吐き出せなくなってしまう。
「………鷺姫が悲しむだろう、ニアルチ殿も」
ようやくそれだけ言うと、ネサラの視線がさまよった。
「この俺が側にいながら、みすみす殺すわけにはいかない。あんただけじゃない、他の誰でも俺は守る」
助けるのと守るのとは違うのかもしれない。ネサラになした行動が、助けだったのか守りだったのか、判然としない。一方で、リアーネとニアルチはネサラが守っている相手だ。しかし彼らもまた、ネサラを守ろうとした。化身した獅子に戦う術もなくあそこまで果敢に立ち向かう者を、いまだかつて知らない。
あの緑の眼差しが、スクリミルを貫く。彼女が守りたかったネサラが一体何者なのか、知らなければならないとも思った。
この男には生きていてもらわなければならない。報復に猛る気持ちの後ろに、そう囁く本能が確かにある。
報復はその後でも十分に間に合う。そう理性が後押しする。
「今日は、二人と一緒にはおらんのだな」
「いくら正の気に満ちていて鷺に暮らしよい世界になっているとはいえ、行軍にも戦闘にも疲れている。宿に押し込んで、ニアルチに世話を任せてあるから、いまは、一人だ」
いまは、の部分を強調する態度は気に食わない。
「鷹王の怒りを受けるまではと言ったわりには、随分挑発的だな」
「死なない程度だったらいくらでもってとこかな」
「……なるほどな」
死なないことがネサラの行動原理なのだとしたら、あらゆる彼の行動が腑に落ちる心地がした。彼の態度も性格も裏切りもいまここにいることも、彼と彼の民が死なないための行動なのだ。
怒りや憎しみだけでは王にはなれない。外の事象に飲まれない確固たる意思。何があっても変わらない心の柱。まざまざと見せつけられて、スクリミルは歎息する。
「なんにしても、俺が王になる前に、俺の両腕が空いているうちに、全て解決してもらわねば困るのだ。俺がそれ以外のすべてからあんたを守ってやれるうちに、さっさろ鷹王と決着をつけろ。その後でなくてはあんたを責めることさえ躊躇われる」
鼻息も荒くそう告げると、ネサラの口端が小さく上がった。