正しさの色

 白に赤はよく映える。
 雪を踏みしめて朝の光を存分に浴びているスクリミルを、ネサラは木の枝に腰掛けて眺めていた。冬の朝の静謐さが、満ちあふれる正の気によってその様相に拍車をかける。ネサラの見知る王たちは、誰も正の気に気後れしない。正の女神に対抗しながら、正しさのために戦う負の女神に率いられる一団は、正義だ。その中にいながら自分が一番罪深いことをネサラは自覚している。なぜこちら側にいるのだろうと考えないことはない。
 数日前にスクリミルがネサラを裏切り者と罵ったその怒りは、正しい。傷をつけても殺しても、正しさが彼を許すだろう。あのときネサラを庇ったリアーネとニアルチが正しいか正しくないかはネサラにはわからない。それを前に引き下がったスクリミルの真意も、知れない。
 深呼吸を終えたスクリミルは体を伸ばし、なにやら体操らしき一連の動きを始める。
 その体躯からは想像に難しい軽やかさや柔軟さがいかんなく披露される。しばらくはそれを眺めていたが、ネサラの視線はやがて上へと移っていった。
 空の雲は薄くて疎らだ。次の雪は遠いだろう。
 右から左へと数羽の鳥の影が横切っていく。鳴き声も聞こえる。風は人の声を運んでこない。耳はあまりよい方ではないが、それでもこんなにも静かなことは今までなかった。
 雲が流れていく。
 ネサラは瞼を閉じて、鼻から息を吸う。差し込むような冷気が心地よく、そのまましばらくじっとしていた。
「鴉王!」
 不意に呼びかけられて、目を開ける。いつのまにか体操を終えたのだろうスクリミルが、木の根元からネサラを見上げていた。
「……どうかしたかい」
 彼の背後へ続く足跡を遡っていくと、元々いた場所からまっすぐこちらへと向かっていた。ネサラがいることにいつ気付いたのか、それとも始めからわかっていたのだろうか。
「それは俺が言うことだ。そんなところでこんな時間から何をしている?」
「別になんにもしちゃいないさ。まだ誰も起きてないから暇だったんだ」
 軽く応えて、ネサラはスクリミルの隣へ飛び降りた。柔らかく軽い雪が低く舞う。
「随分早起きなのだな」
「意外かい?」
 問いかけると、肯定が返ってくる。
「もちろんだ。あんたみたいな奴は、朝は嫌いなものではないのか」
 そう言われてしまえば、ネサラは苦笑する他ない。
「鳥は夜に弱いんだ。夜が早ければ朝も早くなるだろ」
「それもそうか」
 鳥翼の民はみな夜の闇が不得手だ。たいまつを用いることはできるが、自ら好んで使いたがることはない。
「鷺の姫は?」
「まだお休み中だ。親衛隊が神使を起こすくらいのときに起こしにいくさ」
「そうか」
 スクリミルは周囲に上気をまとっている。このまま外にいると汗が冷えて風邪を引くかもしれない。そう考えたネサラは、スクリミルを屋内へと誘った。
「お茶を淹れるくらいならできるんだが、中で一緒にどうかね」
「ほう?悪くないな」
 街道沿いの宿屋の設備は良好だ。主人も女将も石になってしまって何らもてなしは受けられないが、物資の補給には事欠かない。道中の消費に関して、ベグニオン国内への支払いは戦後にサナキの名の下で行われると言われていたので、ネサラは割合遠慮なく宿の備品を利用していた。
 回り道をして井戸水をくみ上げてから廚へ入り、炉を焚いて湯を沸かす。少し手間取ったものの、もともと管理がよかったのだろう、比較的簡単に火をつけることができた。目を付けていた茶葉と器を取り出して、手際よく支度を進めた。スクリミルは適当な椅子を見つけてそこに座る。
「随分慣れているようだな」
「普通程度じゃないかね」
「俺は茶など淹れられんぞ」
 だろうな、とネサラは笑う。
「ガリアではあまり茶は飲まないのか?」
「そうだな…叔父貴が飲んでいるのはごくたまに…それでも客人が見えるときくらいか」
 ネサラは大きめの踏み台を炉のすぐそばに引き寄せて腰掛ける。水の冷たさから考えて、沸騰するまでには今しばらく時間がかかりそうだった。
 屋内とはいえ、厨房は暖房器具が整った部屋ではないため、床や壁を通した外の冷気がしみ込んでくる。
 作業用の大卓に両手で頬杖をついたスクリミルは大きくあくびをした。
「眠いのか?」
「いや、そこまででもない」
 薬缶から少しずつ湯気が立ち上ってきたものの、まだ時がある。しかし、ネサラはスクリミルに話しかける言葉を持たず、スクリミルはとうとう目をつむってしまって、部屋の中には水の動く音以外になくなってしまった。
「……」
 ネサラは爪先を見下ろす。雪が張り付いていて、靴の先同士で擦り落とした。
「雪ってのには、なかなか慣れないな」
「キルヴァスも雪は降らんのか?」
 なんとはなしのつぶやきに、スクリミルは眠りそうな顔のまま返事をする。
「キルヴァスで降るものと言ったら雨ばかりだ。たまに雹になると、ただでさえ貧しい土地や民が更に弱る…」
「王、か」
 ネサラの言葉のどこに引っかかったのか、スクリミルは背中を起こす。
「土地のことも民のことも考えるあんたが、どうしてフェニキスの土地も民も見殺しにした?」
 まっすぐ問いかけられて、ネサラは詰まる。確固たる答えをもってはいるが、それは臆面もなくさらけ出せるようなものではなかった。
「答えなきゃ……ならないよな。戦場じゃ、ガリアの民たる兵たちも死んだんだろうしなあ」
 間延びした声音を返しながら、スクリミルを直視できない。揺らめく火を見つめて、そのまま黙りこくってしまいたかった。
「……どいつもこいつも、キルヴァスの民じゃないからさ」
 言ってしまえば簡単だった。ネサラはキルヴァスの王だ。鴉の頂点にだけ抱かれて、鴉の進退にだけ責任を持つ。問題なのは、そのために他の土地を民を犠牲にするのが正しかったのかということ。
「それでは、なぜ鴉ではない鷺の姫はおまえをかばう?」
 問いを重ねるスクリミルの表情はわからない。だが少し早口になっていて、不愉快に思われているのだろうことが知れる。
 なぜ正なる鷺が、鴉を庇う。その疑問自体は尤もだった。しかし、ネサラにも理解できない。いろいろ悪事を働き、リュシオンにへそを曲げられたことは何度もあったものの、最終的には和解を乞い、許しを得たものだ。そして今回ばかりは鷺との断絶を覚悟していたのだが。
「あの娘はおまえのしでかしたことを知らないのか?」
「知ってるさ。あの子は聡いんだ」
 知ってて、労るような顔をする。慰めるような手を差し伸べる。どれだけどす黒い感情をたぎらせても、彼女はネサラを避けない。
「なんでだろうな、俺にはわからない」
 知りたければリアーネに直接聞くしかないだろうが、聞いたところで理解する自信がネサラにはない。仮に彼女がネサラの中に正しさを見出しているとするならば、どこまでいってもわかりあえはしないだろう。正負も善悪も、見る角度によって変わるものだが、リアーネがどの立ち場から事象を見ているのか、想像もつかない。
「俺が王ではないからわからないのかもしれんな」
 スクリミルが発したのは、思いのほか真面目な回答であった。
「そういうもんかね」
「俺はまだ、土地を負う責任を知らん」
 戦において兵を率いたのも、ついこの間が初めてだった。
 ネサラはついスクリミルを見やった。カイネギスを継いでガリア王となる男。
「王になったらいやでもわかるさ」
 投げやりに言うと、スクリミルは眉根を寄せた。
「ああ、湯が沸いたぜ。もう少しだ」
 何か言われるより先に、ネサラは薬缶を取り上げる。湯気の量が増して、蓋がかたかたと動いていた。
 茶葉を蒸らし始めると、ほのかに香りが漂う。スクリミルは鼻を利かせると「よい匂いだな」とつぶやいた。
「そうだろ。ここにある中じゃおそらく一番いいものだ」
 器を温め、茶を注いでいると、廊下の向こうから足音が近づいてくる。やがて廚に現れたのは、天馬騎士三人と槍使いの田舎娘、そしてニアルチだった。
「ぼっちゃま、こんなところで何をしておいでですじゃ」
「見りゃわかんだろ。茶を飲むとこだよ。そっちこそなんなんだ一体」
「朝ご飯の準備ですよ!鴉王様も手伝ってくれるんですか?」
 元気よく答えたのはマーシャだ。
「おはようございます、鴉王様。こちらのことはお気になさらず、ごゆっくりなさってください」
「おはよう。あんたが言うなら手伝ってもよかったんだがねぇ」
「あらまあ」
「私じゃダメなんですかぁ!?」
 穏やかに笑うシグルーンの背後では、炉を見たタニスがネサラに向き直って軽く頭を下げる。
「鴉王殿、火をおこしてくださるとはかたじけない」
「ん?ああ、使ったからな。後ろのあんたも、おはよう」
「!………ぉはよう、ございます……」
 三人の奥で芋の袋を開けるネフェニーにも声を掛けると、おそるおそる振り返った後でごく小さな声だが挨拶が返ってきた。
「何だこの味は」
 振り向くと、スクリミルが陶器を口元に当てたまま顔をしかめていた。驚いて自分でも味を確かめるが、変な風味はない。香りにふさわしいものであろう。
「苦いか?砂糖とかジャムとか、入れるか」
「まずいわけではないのだが……何だ…?」
「飲み慣れないうちはしょうがないことかもな。残してもいいんだぜ」
「いや、飲む」
 一気に騒がしくなった厨房は、さっきまでよりも空気が温かい。ニアルチが棚から木の実のジャムの瓶と小さな匙をもってきて作業台に乗せた。
 シグルーンが大竈へ火を移しながら献立について指示を与えると、桶を広げたマーシャとタニスが競い合うように芋や根菜の皮を剥き始め、ネフェニーは大きな壷を抱えて水を汲みに行く。ニアルチはそこらを物色して調味料を探し出した。
 厨房は大きく、余計者二人が暢気に茶を啜っていても邪魔になるような慌ただしさではない。
 他愛のない話をしたり、少し手を貸したりしているうちに、調理台の上には数枚の大皿に盛られた料理が出来上がっていた。
「タニス、そろそろ神使様をお迎えしてきてもらえるかしら」
 手を拭きながらシグルーンがタニスに声をかける。
「承知した。しかし、いい加減ご自分で起きられてもよいお年頃なのではないか?」
「このごろは慣れない行軍でお疲れなのでしょう、あなたも身に覚えがあるのではなくて?」
「ふ、そういうことにしておいて差し上げよう」
「それではこの老いぼれもお嬢様をお起こししに参りましょうかの」
 意味有りげに笑って出て行こうとするタニスの後を、ひょこひょことニアルチが追いかける。
「マーシャ、ネフェニーさん、食堂へお皿を運びましょう」
「はーい」
「俺もやろう」
 あんたはどうする、と横に目をやると、すっかり冷えてしまったであろう茶の残りを舐めるスクリミルと視線がかち合った。
 深い黄金色が細められる。
 神使も鷹王も同じ目の輝きを持っていることをネサラは思い出していた。