闇の誓約書

 天使の衣、青の宝玉、赤の宝玉。敵の懐から掠め取ったものを携えて、ラガルトは鼻歌交じりでマリナスの管理する馬車を探していた。
 深夜に起こった戦闘は突然のもので、応戦した人員はそう多くはない。マリナスに声をかける余裕はなく、休息地での待機時間でもあったため、いまも眠っているかもしれないという懸念はあったが、ほのかに灯る松明を見つけた。
「おや」
 そう声をあげたのは、予想していなかった男が一緒にいたからだ。マリナスと一緒に馬車の後部に腰掛けていたのは、ラガルトをこの軍に引き込んだ張本人。
「宝箱の中のもんだってなら、さっきニノが代わりにって持ってきたが…?」
「あー、そっちはジャファルにまかせたんだ。オレはドロボウをやってた」
「…そういうことかよ」
「そんな顔しなさんな。必要なもんだろう?」
 ヘクトルが否定も肯定もせずにいると、マリナスは宝玉を受け取って「いい仕事をするもんじゃ」などと皮肉った。
「それ、お宝かい?」
 松明ごと馬車の中へと入っていったマリナスの動きでヘクトルが一枚の紙を手にしていることに気がついて、興味本位でそう尋ねると。
「なんだかわかるか?」
 見るように差し出されて、視線を落とす。
「あの女が落としたもんだ」
「ソーニャが?」
 黒い牙を変えていった元凶、その一部である女の名前に、ラガルトは眉を寄せる。
「暗殺がどうこう書いてあるんだが要領を得ねえ」
 手渡された紙面。文字はよく見えないが、特殊なインクと紙の手触りには覚えがあった。
「闇の誓約書だな」
「なんだそれは?」
 マリナスが幌から出てきたので、松明を借り受けて慎重に照らす。黒染めの羊皮紙に漆黒のインクで書かれた文字は、非常に読みづらい。さらに、普通の生活では関わりのないであろういわゆる闇の世界の言葉が随所に用いられており、学の有無にかかわらず正しく読み解くのは困難なはずだ。
「これで誓約を交わすことで、盗賊は暗殺者に生業を変えることができる」
「盗賊が暗殺者になる?」
「オレみたいなやつでもジャファルと同じ職を名乗れるようになるってわけだ」
「ということは、分類は騎士の勲章や導きの指輪と同じでよいのかの?」
「問題ないと思うぜ」
 マリナスの手に誓約書を預ける。少しの間ためつすがめつ眺めていたが、結局わからんのうと呟いて再び馬車へと姿を消した。
「……すぐに出るから、準備しといてくれよ」
「承知してございます」
 ヘクトルが声をかけると、明快な声が返される。いい歳だろうに、この強行軍にもしっかりついてきているマリナスに、ラガルトは感心せざるを得ない。
立ち上がって歩き出したヘクトルをぼんやり眺めていたラガルトだったが、「行かないのか?」と振り向かれて、思わずその背を追った。
 並んで歩くと、歩幅の違いを思い知る。歩き方の違いは職の違いだ。同じ速さでは進めない。
「闇の誓約書……使うか?」
「え?」
 思わず立ち止まると、ヘクトルも同様に足を止めてこちらを向いた。松明の火も、窓から漏れる明かりもここには届かない。月明かりは心もとないが、ラガルトはヘクトルの表情を読み取ることができる。いたって真面目な顔つきだ。
「俺より先に訊くべき相手がいるんじゃないのかい」
「ジャファルと同じにあいつがなれるか、俺にはまだ訊くことができねぇ」
「なるほどね」
 自分の腰元をそっと撫でる。ここにあった鍵は、いまでもヘクトルの手の内にある。戦場に忍び込む盗賊から奪い取って賄うことも多々あるが、預けている鍵こそが大切で不可欠な存在だと思っている。
「暗殺者を雇ったことはあるかい?」
「……いや」
「だよな。暗殺者なんて、その辺にホイホイいるもんじゃないからな」
 オスティアが密偵を多数抱えている話は聞いた。だが、その中にどれだけ暗殺を請け負う者がいたことだろうか。そして、オスティア侯本人はともかく、その弟、出奔も多く何かと中央を離れるヘクトルが彼らと関わる理由があったとも思えない。
「暗殺者は依頼主がいなけりゃ食っていかれない。だから誓約書が必要になるんだ。暗殺の仕事がないときでも生活の保障はすると」
 ヘクトルの視線はずっとラガルトに注がれている。この先、彼は密偵も暗殺者も用いていかなければならない立場になるのかもしれない。兄の補佐をするのならなおさら。
「お前さんは、一生俺を抱えて生きていくことができるか?」
 意地の悪い、と自分で思う。決定権は彼にはない。これは個人対個人で交わす性質の誓約ではない。
「……俺は」
「なんて言ったが、何もそれだけが問題なわけじゃない」
 ラガルトは声の調子を上げて、笑って見せた。ヘクトルの言葉は行き場を失って夜に飲まれる。
「暗殺者になるってことは、体ごと作り変えるに等しいんだ。重心が変わって、歩き方すら変わる。そうすると、今日みたいな宝玉はもう手に入れられない」
 戦場で、相手の懐を探ることができなくなってしまう。いままでそうやって生計を立ててきた身には、その変化は損失にしかなり得なかった。
「オレはただのドロボウだ。数えるのがいやになるほど人も殺したがーー」
 ヘクトルが怪訝そうに眉をひそめ、この話は彼にはしていなかった、と気づくがもう遅い。
「それを本職にはできない。結局のところ、オレにはその覚悟がないんだ。……軽蔑するかい」
 どこまでも卑怯で臆病な自分。相手から自分への好意を信じているからこんな芸当ができる。弱いところの一握りでもさらけだしてしまえば、それ以上踏み込んではこられない。弱くて柔らかい心を踏み抜くような真似ができる人物ではないとわかっているから。



「お前はあの仲間に挨拶しなくてもよかったのか?」
 夜の街道を進みながら、ヘクトルはラガルトの隣を陣取っていた。
「ヤンじいのことかい」
 出立の直前に彼がニノを訪れ挨拶をしたのを、ラガルトは離れて見ていた。一番古い仲間の一人だ、話すことは山のようにあるが、そのうちの一つも形にせずに、道は分かたれた。
「かける言葉もないし…また会おうとも言えやしないだろ、この状況じゃ」
 ヤンも決して若くはない。ラガルトも戦の中に身を置いている。再会の約束などできそうにないし、今生の別れを告げる勇気は持てない。
 変化が受け入れられない。認めたくない。同じままでいたい。年齢を重ねて、この身も衰え、いずれ盗賊としてさえ生きてはいかれなくなるだろうけど。
 この先もずっと昔は良かったと言い続けるのだろうか。
「誤解はしないでくれよ。この軍に入って後悔してるとか、そういう話じゃねえからさ」
沈黙もしんみりした空気も不得手で努めて明るく振舞うがヘクトルの反応は薄い。
「戦うことだって嫌いじゃないしな」
「…俺たちは」
 やがてヘクトルが口を開く。
「俺やオズインや…騎士たちは、強いことが一番で、さらなる強さへの手助けとなる天の刻印や騎士の勲章なんかは喉から手が出るほど欲しくてしょうがねえ。だから、お前たち盗賊も同じだと思ってた」
「強くなりたくないってわけでもないがねえ」
「だけど、できなくなることがあるんだろ。そんなこと思いつきもしなかった。俺たちは多くの種類の武器や、より扱いの難しい武器を正しく振るえるようになることで強さを実感するが、お前たちはそうじゃねえんだ」
「その辺の価値観もひとそれぞれってやつだろうよ。なにしろ暗殺者は金になる。立派な働き口だ。飢えて死ぬことはまずないと言っていい」
 そういえば、とラガルトは思う。ジャファルはこの後どうするのだろう。彼は主に離反した。裏切りを経た暗殺者が他の主を見つけることは難しい。
「少なくともお前は…金が欲しいわけじゃねえ、と?」
「言っただろ。闇に身を落とす覚悟がねえだけさ。戻ってこれねえ闇は怖い」
 今だって決して明るいところにいるわけではないが、真の闇とは程遠い。ここまでの道中幾度も味わった、闇魔法の押し寄せる恐ろしさが、ラガルトにそれを疑似体験させた。
 ラガルトはそっと右掌を眺めて撫でる。指の付け根の下に胼胝こそあるが、それが破れるほど剣を振るった記憶はない。
 鍵の調整をする手だ。開け放った鍵穴が恋しい。誰にも見つからずにいれば剣を使う必要がないのが盗賊だ。
 【黒い牙】が宝だった。盗賊だって、宝を手に入れ守るためには剣を抜く。牙を守る、かつての粛清者の仕事は盗賊の仕事と似ていた。
 だから、まるで暗殺者の端くれのような扱いをされたあの時期が、忌々しくてたまらない。
「斧なんか担げそうにねえ手だぜ」
 不意にヘクトルが、己のそれより一回りは細い手首を掴んで、自分から見えるようにとひねった。そして、グローブを嵌めているため直接は見えない掌の皮膚、胼胝のあるところを的確に触る。
「そのくせエリウッドと同じような手をしてやがる。なんだかんだ剣士だよな、お前も」
「褒めても何にも出やしないぜ?」
 少しの困惑とともにそう答えると、ヘクトルは眉を上げてラガルトを見遣った。視線がぶつかる。 「ーーお前が欲しい、それだけだ」
 あまりの言葉に面食らってしまって、一瞬反応に遅れる。密偵としての引き抜きの文言だとわかっているが、心臓が縮む思いは禁じ得ない。
「な…んて熱烈な愛の告白なんだか」
「俺の一世一代の大勝負だからな」
 ヘクトルは掴んだ右手をさらに引き寄せ、手の甲を覆う鋼に口付ける。声は笑みを含んでいた。
「持久戦は好きじゃねえんだが、お前がしたいって言うならやぶさかでもねえぜ」
「……盗賊だって一撃離脱が身上なんだがねえ」
 笑うに笑えない。
 どこまでも臆病だ。愛を向けられることすら恐れている。
 主の命令であれば愛まで封じ込めてしまわねばならないことを、ラガルトは忘れずにはいられないのだった。