ぬくもりを呼ぶ

「…動くな!!」
 と制したのは砂漠の男だった。
「なんだ!?」
 何もなかったはずの空間に、突如として壁が現れる。地面が揺れ、ラガルトは反射的に重心を低めた。それを、バランスを崩したせいととったのだろう、隣で仁王が如く堪えていたヘクトルは、ラガルトの腰に腕を回して引き寄せた。
「大丈夫か?」
「お、おー…」
 壁越しにホークアイが現状を推察し、それを聞いたヘクトルは吠える。【魔封じ】とやらの影響で気が立っているのだろうか。
「離してもらってもいいかね?」
 遠慮がちにささやくと、ヘクトルは簡単に謝ってすぐ手を離した。
「ついでに鍵をもらってもいいか。すぐそこに扉があるだろ」
「そうだな、頼む」
 預けていた鍵を返してもらうと、ラガルトは即座にその場を離れて扉へと直行した。向こう側に敵の気配はしない、防衛策をとらずに開けても問題はないだろう。鍵を差し込み、細工を施す。難なく扉を押し開けたそのとき。
「ラガルッ……」
 聞こえかけた名前は、最後まで呼ばれきらなかった。
「…?」
 何かあったのかと思わず振り返ると、口を半ば開けたまま立ち止まるヘクトルと目が合う。
「………」
「なんだい…?」
「ち、近くに盾役もいねえのに開けたら危ねえだろうが。重騎士なんかがいたら、どうするんだ!」
 そういいながら歩いてくるヘクトルの表情は戸惑いを帯びている。
「大丈夫だと思ったんだが…そうだな、何があるかわからない場所みたいだし、気をつけることにするか」
「そうしてくれ」
 珍しく煮え切らないヘクトルの様子に、ここの【気】の影響の強さが見てとれる。ラガルト自身には何の変化も現れていなかったが、空気の澱みと、背中を逆撫でられるような居心地の悪さは感じていた。この様子では、気配の読み違えも本当に起こりうるかもしれない。
 そこから先は少し慎重になったものの、積極的に盾の役割を負ったヘクトルの働きもあって、最終的にラガルトの懐は戦利品の数々で満たされたのであった。



 しかし、一瞬にしてナバタ砂漠からフェレの地まで移動するなどとは、誰が想像できようか。人生なにがあるかわからんよな、などと独白しながら、ラガルトはマリナスの輸送隊を訪れて今日の戦で得たバーサクの杖などを預ける。
 この館の住人である、エリウッドとその母親エレノアの采配で割り振られた部屋に戻ろうと広い廊下を歩いていたが、不意に、あたたかな屋敷のなかに冷たい空気が流れ込んでいるのを感じ取る。
 風の流れをさかのぼっていくと、そこはアトスによって運ばれたエリウッドらが現れた広間であった。大きな窓を覆う布が緩くはためいており、そこから風が入ってきていたのだと知れる。
 まさかとは思うが、警戒するに越したことはない。腰の剣に触れながら窓の外を覗くと、青い後ろ頭が見えた。
「若様じゃないか」
 声をかけずにいることも考えたが、月が大きく明るいのに彼が頭を垂れたままでいるのが気になって、放っておくことができなかった。
 緩やかに振り向いたその顔には、いつもの覇気は見られなかった。さしもの彼も、疲労がたまっているのだろう。
「……その若様ってえのは…」
「マシューがそう呼ぶから拝借してみたんだが?」
「その様子じゃ、随分仲良くなったみてえだな」
「まーな。いろいろ話す機会もあったから…」
 最近では、ラガルトがヘクトルとともにいても咎めるようなそぶりを見せることはなくなった。偏に彼の警戒を解くために己をさらけ出すことを選んだ結果であろうとラガルトは思っている。
「だけど、お前が俺を若様なんて呼ぶ理由はねえじゃねえか」
「そうかい?」
「俺の部下になるのを断っておきながら、知らねえふりするんじゃねえよ。臣下でも領民でもないくせに、若様も何もあるかって」
「おやおや……」
 オスティアに仕えないか、というヘクトルからの誘いを断ったのは事実だ。そんなラガルトが、部下と同じ物言いをするのは、癪に障るのかもしれない。
 一方で、苦々しげな様子を見て、ああそうか、と腑に落ちたことがあった。
「お前さんが、オレをどう呼んだらいいか迷ってるんだろう」
「!」
 ヘクトルの眼差しは、図星を物語っていた。
「主従関係じゃないのと、歳はオレの方が上なのと、身分はそっちの方が圧倒的に高いのと。いろいろとあべこべだからな、迷うのもしょうがないか」
 砂漠の一件で彼が戸惑いを見せたのは、ラガルトを呼び捨てにしてもいいのか判断に困ったからだろう。
「ラガルトって呼んでくれよ。他にふさわしい呼び名なんてないだろ?」
「【黒い牙】じゃあ【疾風】って呼ばれてたそうじゃねえか」
「でもオレはもう【黒い牙】じゃない」
 曖昧に笑ってみせると、それもそうだな、とヘクトルは頷いた。
「ところで、こんなところで何してたんだ? 確かに月見にはもってこいの夜だが、そういうわけでもないんだろう?」
 何でもない、と言われれば引き下がるつもりでいた。
「考え事をしていた」
「考え事?」
「いまガラにもねえことをって思っただろ」
「そんなことないさ」
 少しだけ心当りがあって、肩をすくめる。ヘクトルの反応は、素直そのものだった。
「兄上の体調が…かなりまずいんじゃないかってことだ」
 ヘクトルの兄——オスティア侯ウーゼル。ラガルトはちらっと見た程度だが、それだけではごく普通の、壮健な成人男性だという印象しか持ち得なかった。彼の顔に走る傷跡は、ラガルトの持つそれとは由来の異なるであろう、歴戦の証左と思われた。
「誰にも言えやしねえ。こんなことは。エリウッドには特に…」
 ヘクトルとエリウッドは旧知の仲であり、比翼と例えられるほどであると聞いていたが、その彼は先日この動乱のなかで肉親を失ったばかりで、衰弱、畢竟するに死を内包した不安の吐き出し口とはなり得ないのが現状だった。
「お前さんの部下たちはどうなんだ」
「オズインは俺に忠誠を誓った。マシューも、そうだ。だが、俺への忠誠はオスティアへの忠誠だ。兄上の命令の方が、あいつらにはより強い強制力を持つってことくらい俺にだってわかる。俺が言えと言っても、兄上が言うなと命令していれば、それを破ることなんてことは絶対しねえ」
 ヘクトルがバルコニーの手すりにもたれかかりながら、独り言のようにつぶやくのを、ただ、聞く。精神的に追いつめられているのが感じられる。晴れぬ疑いは新たな疑いを呼ぶものだ。
「俺は本当のことが知りてえだけなのに」
「本当のことを知るってのは、一番難しいことかもしれない」
 ヘクトルの声がどんどん掠れていくので、黙っていられなくなった。お子様だ、どうしようもなく。子供のケアをするのは年長者の役目だと、ラガルトはそう思っている。昔、【黒い牙】で子供の時分の己に誰かがそうしてくれたように、ラガルトはヘクトルの額に手をかざした。髪の生え際を軽く撫でてやると、ヘクトルが目線をあげる。青い光を放つ双眸。
「……ラガルト」
「ん?」
 名を呼ぶ声に、今度は迷いはない。
「ありがとな」
「何が?」
「こんなこと聞いてもらって」
「礼を言うことでもないさ」
 自分は汚い大人だ。何も知らない素の子供のなかに、無作為を装って心の内の面影を映しこんでいく。普段の威勢の良さも、兄を慕う姿勢も、何もかもが懐かしさを伴った。もう二度と同じ道を歩むことはないであろう、【黒い牙】の仲間だった者。  
 彼はいつも兄と共にあった。こんな風に一人で、他人に不安を吐露するようなことなど滅多になかった。例外はもちろん何回かあったが——。
 額から手を離すと、ヘクトルは眉尻を下げて、困ったような顔をした。
「ダメだなあ」
「どうした?」
「お前は何しても怒らないような気がしちまう」
「怒りゃしないさ。というか、誰もお前さんを怒るなんてことはできないんじゃないのか?」
「そういうところが……」
 はー、と溜め息をついて上半身を折り曲げる。いつもは自分より高い位置にある頭が今は胸の辺りまで降りてきていて、思わず、今度は頬に触れた。冷えた弾力が帰ってくる。
「すっかり冷たくなっちまって」
 常日頃剛毅を誇る人物が弱ったような姿を見るのは悪くない。こと、ヘクトルに関しては、背伸びしたがる子供の印象がつきまとって、年相応だと思える様子に知らぬ間に笑みがこぼれた。
「寒い」
「だろうなあ」
 ラガルトが見つけるまでにどれほど時があったのだろうか。頬を間断をつけて押し付けていると、ヘクトルはその手をとって姿勢を戻した。そして。
「ぅお!?」
「お前でも驚いたりするんだな」
「そりゃあ…なあ?」
「はは」
 背中に手を回し、正面から抱き寄せたヘクトルは、ラガルトの肩口に鼻先をうずめてこっそり笑った。驚きはしたものの、甘えてくる犬や子供のようで、押し退ける必要性を感じなかった。
「お前さん、冷たいのはほっぺただけじゃないか」
 脇腹をぽんぽんと叩いてやりながら、ラガルトはその体温を感じる。覆い被さるような体躯のあらゆる部位から、ぬくもりを感じた。
「しかし、細え腰だなあとは思ってたが、一体どうしたらこんな体型になるんだ?」
 鍛え上げられた両腕がラガルトの背後へと回される。
「鎧も着なければ、斧を振り回すでもなくなれば、お前さんだってこうなるさ」
「それだけとも思えねえが」
「体が重いと業務に支障が出るからな。その辺は結構気を使ってるのさ」
「確かに太った密偵なんてのは見かけねえなあ……」
「だろ?」
 ヘクトルが声を発するたびに吐息が首筋をかすめてくすぐったい。
 その屈託のなさに胸の深いところがざわついて、耳の付け根の少し上に唇を押し当てた。彼特有のにおいが、鼻の奥へと通り抜けていく。ヘクトルが何も言わないのでしばらくそのまま様子をうかがっていると、少し身じろぎして、ラガルトの顎の付け根に同じことをした。
「もっと初心な反応を期待してたんだがねえ」
 こういう方面ではからかい甲斐がないのだと心に留めておく。他人の、特に女性の扱い方を見るに、予想のつくことではあるが。
「ガキじゃねえってことだ」
「言うねぇ」
 ヘクトルは身を離してラガルトを見下ろす。頭半分ほど高い身長は、きっとまだこの先も伸びていくのだろう。
「ま、今晩はゆっくり休もうや。封印の神殿を探すにしろ、【黒い牙】にいつ接触しないとも限らないし」
「そうだな。邪魔する奴は全員ぶっとばす!」
「お前さんらしいね…」
 笑ってやろうと思ったが、うまくいかなかった。お前を倒すとか殺すとか、言ったことはない。殺すときには姿も見せない。そうして、誰にも顔向けできなくなっていく。
 今、自分がいるのは、途方もなく明るい場所だ。
 月の明鏡な晩は命取りだったはずなのに、こんなにも心穏やかなのが不思議でならない。
「じゃあラガルト、また明日な」
「ああ。おやすみ」
 而してヘクトルの名はまだ呼ばわらない。