The key to stay

 ラガルトは笑って、オレは密偵なんて柄じゃない、と言った。怒濤の連戦を終え、オスティア領に帰還した晩のことであった。



 【黒い牙】に見切りをつけたという自称ドロボウの言葉を鵜呑みにするわけではないが、密偵を多数擁するオスティア家に生まれついたとあって、ヘクトルは自分なりに彼らとの付き合い方を心得ているつもりだった。比較的長くオスティア家に仕えている密偵のマシューが行軍中も絶えず敵愾心を示していたことが気になって、ヘクトルは夜になってから少し時間を取ることにした。
「ナバタ砂漠だなんて、とんでもないところに行かせるもんだねぇ、お前さんの兄上とやらは」
 指定した時間通りにヘクトルの居室に姿を現したラガルトは、まずそう挨拶した。ヘクトルはソファに腰掛けたままそれを迎える。
「行きたくないか?」
「いいや? 砂漠にはお宝が眠ってるってもんだし、ドロボウにはある意味お似合いの場所じゃないか」
 本心を悟らせない、胸が躍るねぇなどと気安い調子で答えるラガルトだが、戸口に立ったまま部屋の中央へは踏み込んでこない。手招きして隣に座るよう呼びかけると、ラガルトは面食らったのか、目を数回瞬かせた。それから苦笑するように面伏せて、右手を否定するように振る。
「お前さんの密偵の熱視線が痛いほどでねぇ。まだ生かしておいてくれるつもりがあるんなら、そういう際どいことはさせないでおいてくれるとありがたいんだが?」
「…マシューか。しょうがねーな」
 確かに、近くにいるのを感じ取れる。本職ではないヘクトルにもわかる程度の気配なので、まだ本気でラガルトを狙っているわけではないだろう。己の存在を示し、自制を求める、ある意味での脅しと見える。
 合図を送ると、少し間を置いて扉を叩く音がする。入室の許可を告げると、マシューが礼とともに現れた。いつもは朗らかな表情で接してくる彼の顔つきが険しい。
「こいつが持ってる武器を取り上げろ」
 そう指示すると、マシューが何かするよりも先に、ラガルト本人が両手を上げてみせた。
「残念だが、何にも持ってないぜ。輸送隊のおっさんに預けてきてある」
 まさか目上の人間の部屋に剣なんて物騒なもの引っさげていくわけにはいかないだろう、と説く、緊張感とはほど遠い態度。
「……確かめさせてもらう」
 断りを入れ、マシューはラガルトの懐のうちに入る。しばらく服の上から探って、実際に持っていなかったのだろう、何も手に取らずに、身を離した。
「マシュー、今日は手出し無用だ…いいな?」
「………わかりました。ではおれはこれで」
「ああ」
 マシューはそのまま部屋から出て行ったが、おそらく近くにはいるのだろう。しかし、ああ言った以上、よっぽどのことがない限り介入してくることはないだろう。同業者の背中を見送って、ラガルトはちらりと肩をすくめた。
「仕事熱心で優秀な密偵だよなぁ。しかしお前さん、あいつの警戒はわかってるんだろうに、よくもまあこのオレとこんな夜中におしゃべりする気になったもんだねぇ」
「俺が仲間に引き入れたんだ、お前について他の奴らに担保する必要がある」
「お前さんが担保してくれるのなら、願ったり叶ったりだね。何が必要だ?」
「お前のことを聞いておきたい」
「オレのこと?」
 自分の鼻先を指差して確認するラガルトに、ヘクトルは真面目な顔で頷いてみせる。
「【黒い牙】のことじゃなくて?」
「そうだ。お前がまず俺に自分のことを担保してみせろ」
「なるほどね」
 ラガルトは身を翻して窓に寄り、桟に腰を預けた。
「お行儀は悪いが見逃してくれよ。…オレができることの話がいいのか?」
 そのまま口元を隠すように手を当て、しばらく考え込むようなそぶりを見せる。ヘクトルは座ったまま、黙って様子をうかがっていたが、やがて手持ち無沙汰になって、すぐそばのローテーブルに置いてあった水差しを手に取った。
「例えばその水に」
 ヘクトルの手元を注視したかと思うと、ラガルトは突然口を開いた。
「毒を盛ることができる」
 手の陰にわずかに見えた口元は笑っていなかった。思わず動きを止めて、まじまじと見つめ返してしまう。
 瞬間、ラガルトは口角をつり上げて眼差しを緩めた。
「もちろん、何も細工なんかしちゃいないさ…今はな。お前さんの密偵が出てこないのが、その証拠だろう?」
 そもそも毒を持ってない、と笑う。マシューに確認させて、害になるような者がないことは確認済みだ。
 明確な返答はせずに、ヘクトルは水を器に注ぐ。きれいな音を立てながら、五分ほどまで満たされた器を、窓辺の男に差し出した。
「なるほどね」
 何でもないような声音。ヘクトルはこらえようのないいらだちを感じていた。見え見えのおちょくりに反応してしまった自分自身の未熟さ。足音も衣擦れの音もなく一歩の近さまで来ていたラガルトが、杯を受け取り、口元へと運ぶ。ほんの一瞬、唇を湿らせる程度でグラスを離そうする——
「!」
 ヘクトルは立ち上がって、グラスの底に手を伸ばす。そのままグラスの角度を上げると、水が流れ出ようとして、薄い唇に阻まれ、横から溢れた。顎から伝い落ちた滴が、胸元に斑紋を滲ませていく。
「お前さん……」
 口元を親指の付け根で拭いながらの声が笑いを含んでいる。
「さすが、密偵との付き合いが多いだけはあるな?」
「ふざけてんのか?」
「まさか…」
 この不機嫌な理由は自分自身だ。これは八つ当たりだ。わかっている。
 オスティア印で働く密偵たちを雇っているのは、ウーゼルだ。ヘクトルが直接密偵を引き抜いたことはまだない。この男の余裕さえ感じさせる気楽さが、いまは無性に癇に障った。
 不機嫌さを表に出したままのヘクトルに対して、ラガルトは愉快そうな様相を引っ込めた。何事かを告げようとして、小さく口を開く。しかし、考え直したのか、何も言わないまま唇を引き結んだ。
 直後、大幅に水量の減った杯を一気に煽る。今度は一滴もこぼさずに口内へと流れ込んでいく。杯を空けたラガルトは、まっすぐにヘクトルを見据えた。
「いいだろう」
 ヘクトルはソファに座り直した。
「……担保の話だったよな?」
 少しの沈黙のあとで、ラガルトの方から話を切り出した。ヘクトルが頷くと、彼は腰の金属を探って、鍵の束を差し出した。
「さっきの毒の話は、置いておいてくれ」
「これは?」
「とうぞくのかぎ、だ」
 受け取らないままでいると、一旦それを引っ込めて、手の中でちゃりちゃりと音を鳴らす。
「お前さんの部下も、同じようなもんを持ってるだろうが、そいつとはちょいと違うのさ。これはオレがいろいろな方法で得た知識や技で作り上げたもんだ。他の奴らも、自分の技術を注ぎ込んで作る」
「ちょっと待て、前に秘密の店で売ってるのを見たことがあるんだが、あれは何だ?」
「あれは原料にすぎないんだ。自分で加工しなきゃ使い物にならねぇ。もちろん、扉や宝箱によって鍵にも違いがあるから、一回一回微調整が必要なんだが」
「……で、そのお前専用の大事な鍵をどうするつもりだ?」
 ラガルトは我が意を得たりとばかりに微笑んで、今度は鍵束を放り投げた。反射的に手が出てしまい、空中で受け取る。見た目から受ける印象よりも華奢で柔らかい手触りがした。
「オレたち盗賊にとって、鍵を盗まれるのは不名誉きわまりない」
「?」
「その鍵が、担保だ」
 強く言い切られて、手の中の鍵をまじまじと眺める。
「普通誰にも渡さないそれを、お前さんに渡す、これはオレの信頼を渡すのと同じだ。命を渡してると言えるかもしれない。不足はないだろう?」
「……」
 思い返せば、盗賊の鍵に触れたことはこれが初めてだ。マシューもレイラも、他の密偵も、肌身から離しているのを見たことがない。
「どうか盗まれはしないでくれよ」
「【黒い牙】を」
 ヘクトルは顔を上げて、立ったままのラガルトに尋ねる。
「…お前の古巣をぶっつぶすことは、禍根の種にはならねえか?」
「もうとっくに壊されてるさ」
 ラガルトの表情からは、内心は読み取れない。
「だからここにいる」
「そうか」
 鍵を懐にしまう。誰かの大事なものを預かるのは、まだ慣れない。部下の忠誠も兵士の命も、背負い慣れない未熟な身。頭の奥で、兄の姿がちらついて、ヘクトルは小さく頭を振った。
「なあ」
「ん?」
 拳を握り込む心境で呼びかけるが、相手に真剣な面持ちは既になく、鼻歌でも歌いだしそうな顔をしている。
「この戦いが終わったら…」
 次の句を告げるのに、一瞬言葉が詰まる。唾を飲み込んで、呼吸を整える必要があった。
「うちの密偵にならないか」
 言われた方は緊張感の欠片もなく、掌で拒否を示した。
「残念だが」
 表情や態度は柔らかかったが、揺らぎのない声をしていた。
「……オレはもう誰のためにも命を張れない」
「それは…」
「いや……オレは密偵なんて柄じゃないんだ。無理なくドロボウやってる方ががよっぽど気楽でいい」
 ドロボウを無理がないと言ってしまうことに同意はできないが、本人が望まない仕事を強要することはできない。そう思う一方で、竜の門からオスティアへと戻る道中でこの自称ドロボウの戦闘能力の高さは十分に見てきたつもりだ。これを逃すにはあまりに惜しいと、侯弟の身ながら思う。
「悪いようには絶対にしねえ。また、誘うと思うが、いい方に考えを変えてくれたら嬉しい」
「それは、お前さんの誘い方次第かな?」
「誘い方だと? 考えておくことにするか。……ってことは、今日のところは諦めるしかねえようだな。遅くまで引き止めて悪かった」
「なーに、オレたちみたいなのにとっちゃ、夜の方が動きやすいから、その辺は気にしないでいいぜ。じゃあまた、なにかあったら呼んでくれ」
 重力を感じさせない足取りでまっすぐ部屋を横切っていく。扉の開け閉めの際にも全く音を出さなかった身のこなしはさすがだ。
 力の担保は足りていた。心の担保もこの手の内にある。
 そのものを手に入れたいと願うのは、過ぎた望みだろうか。