「おい」
静謐に甘んじて閉ざされていた耳が、不意に落ちてきた短い声を捉えきれずに取りこぼす。聞き違いかと思いながら、身じろぎもせずに次を待っていると、今度は先ほどよりも大きな声が明瞭に聞き取れた。
「…おい」
気のせいではなかったようだ。
声の持ち主の正体を確かめようと、マルコはゆっくりと閉ざされていた視界を広げようとする。まぶたは痙攣のように開閉を繰り返した。結局、鉛のように重たい右手を持ち上げて目頭をこすり、力づくでこじ開ける。
見下ろす峨王と目があった。
「何をしている?」
「んー…?」
下ろしかけた肘が、冷たい壁にぶつかり、鈍い音と微弱な腕の痺れを生む。
寝ていたにしては、場所がおかしい。少なくとも、寝室の寝台は壁に接して配置していないはずだ。そもそも、仰向けに寝ているこの背中が当たっている、感触が違う。固くて冷たいーーそこまで考えて、ようやく自分の周囲四方面を白いなめらかな平面が取り囲んでいることに気がついた。
「…寝てた…?」
これは、バスタブだ。
新しく引っ越すこの部屋を決めてすぐに付け替えさせた1800mmの大きさを誇る浴槽も、成人した大のおとなひとりが寝転ぶには少し寸足らずで、足を持ち上げて縁に引っ掛けた妙な姿勢で寝入っていたようだった。頭を持ち上げるつもりもないまま、足だけ下ろして膝を立てる。
足の裏の素肌が、ひんやりとした底面に触れ、心地よさを覚える。なんとなく思い出したことだが、バスタブに潜り込むきっかけになったのも、肌に触れる冷たさが欲しかったから、だったような気がする。しかし暦の上でさえ夏には程遠いし、暑気が特別倦んでいるわけでもない。と言っても、空港からこのマンションまでの道のりは、空調の効いたタクシーで一直線で、外気に触れた時間など10分にも満たないのだが。
首をかしげて見せた峨王は、マルコに向かって手を差し伸べた。起きて出てこさせる心算だろう。だがマルコはその手に何の反応も示さず、両手を腹の上で組んで白い天井を見上げている。
「おい」
声をかけられても、返答する気力が湧かない。不思議な気分だった。
視界の端で、峨王は不服そうに一度開いた唇を閉ざした。
少しの罪悪感が、胸の内でくすぶる。そんな顔をさせるために帰ってきたわけではないことは明白だ。
本当は、その手をとって、自分のものにしたい。
本当はその目の深い色を捉えて、自分の姿を焼き付けてやって、この体のありかを知らしめてやりたい。だが、そんなマルコのある意味健気な望みとは裏腹に、視神経は焦点を結ぶのも困難なようで、再びまぶたが視界を覆う。
「マルコ?」
反射で顔をしかめてしまう。
暗く閉ざされた視界の外側で、峨王の、よく知った指が、マルコの頬をひと撫でした。乾いた指の腹が、額や首筋を押さえつけるように触れて回る。
「………」
そうして離れていく峨王の体温が恋しい。
わざわざ日本に拠点を置く必要もないくらい、どこにでも行ってしまえるだけの金だの能力だのを持っているマルコは、この温もりが恋しくて帰ってくるようなものだった。
しかしマルコはその恋しさに対峙する術を持っていない。そして今も、追い縋ることもできるのに、直視すらせずみすみす取り逃そうとしている。
それは自ら捨てるも同然のことだ。
峨王は、浴室から出て行ってしまっただろうか。視覚のみならず、感覚全てがぼんやりとしていてつかみどころがない。背中がべったりくっついたバスタブは、シャツ越しでもマルコの体温を吸って、とっくの間にぬるくなっている。何もかもが遠くに感じる中で、マルコは喉元を震わせた。
「……ただいま」
いつだって欲しいのは温もりだった。
高校を出て、地元や家族から離れて暮らすように進路を定めた男に対し、マルコは彼を自分の元に繋ぎとめておく一手をとった。マルコは自分の好みの物件を一室用意しーー峨王の勤務先との兼ね合いも考慮してーーそうして、そこの管理を任せたのだ。
それはマルコのちょっとしたあこがれに端を発したものに過ぎないが、峨王はおそらくは彼なりの考えで、その役割を引き受けた。
その不定形のあこがれがわだかまった、一瞬の間延びした静寂の後、マルコの体が宙に浮いた。
「っ!?」
思わず目を見開いて状況を確認しようと試みたが、視界が回転して、ひどいめまいに襲われる。ぐわんと揺れた頭がぶつかったのは、峨王の肩だ、この感触、この体温、このにおい、間違えようもない。もたれかかって人心地ついたマルコは改めて自分の身を見下ろす。
バスタブからマルコの体を抱き上げた峨王は、歩調を緩めずいつも通りのしのしと浴室を出、廊下を闊歩する。
背中に回された腕も足を抱える腕も、マルコの上体を受け止めている胸板も、前に会った時と寸分の違いもないようだった。
「熱があるだろう」
声音に不機嫌そうな響きが混じる。
そういえば、峨王はこんなに感情をあらわにする性質だっただろうか?社会に出てから、彼がそう変わるようなきっかけがあったのだろうか。
「え」
「妙な真似をする前に、もう少し己を鑑みろ」
それとも変わったのは、二人の関係だろうか。
マルコは思わず自分の額に手のひらを置く。ぬるいだけに思えるが、自分でわかるものではないかもしれない。あとで体温計で測ってみようと心に留めておく。不摂生にしろ不規則な生活にしろ、原因にはいくらでも心当たりがある。
「…あのさぁ」
額から離した手のひらは、峨王の首筋をゆっくり撫でる。少し湿って肌同士が吸い付くような手触りが好ましい。
「何だ」
「……ただいま、って、言ってるんだっちゅう話だよ」
そうは言うが、マルコが帰ってきた時に峨王はいなかった。マルコが浴槽の底で寝入ってしまってから峨王が帰ってきてマルコを発見したのだろうから、おそらくただいまと言ってしかるべきは峨王の方なのだが、マルコはそんなことには構いやしない。
峨王の口元が緩んだように見えた。笑ったのだろうか?こんなに穏やかに笑う男だっただろうか。
頬にじわりと熱が広がっているのを感じて、マルコはたまらずうつむいてしまう。
「おかえり」
安らかな声が、耳に届いて、マルコは泣きそうになる。
マルコは何も知らない。峨王を変えたものの正体を。彼の暮らしも、望みも、見ている世界も。
知ろうともしない彼はただ己のささやかで他愛もない願いを叶えるために足掻いているのにすぎないのだった。