円子令司は駅の近くのマンションでひとり暮らしをしている。
だけどその部屋は、一人で暮らすためのものではない。部屋もソファも机もベッドもひとつきりではないのは、共に暮らすべき人がいるからだ。
「まあ、ね。あの人たちは忙しいから、ずっとここにいるわけにはいかないっちゅー話だよ」
円子令司は駅の近くのマンションで両親の帰りを待っている。
初めてその部屋に踏み入ろうという時、峨王は何も尋ねなかった。
マルコの家庭の事情など知らず、興味もなく、ただ、マルコが「来ない?」と訊くから、ついて行っただけだった。
高校から駅に向かうバスを降りて、少し歩く。マンションにたどり着くと、日本人離れした体格を持つ峨王がかがんだり肩を縮めなくても問題なく通り抜けられるエントランスがまず二人を迎えた。セキュリティチェックを抜け、共用ラウンジを通り、エレベーターホールへと出る。
天井も高く、随分ゆとりのある作りをした建物だ。
「気に入った?」
エレベーターに乗り込みながら、マルコが口を開く。
「大きくていいだろ。うちの父親が気に入ったんだ、ここを」
外国人向けだっちゅー話、と続ける。仕事で国外にいることが多いというマルコの父親はイタリア人だ。その血を受けてか、マルコ自身も、日本の男子高校生の中では抜きん出て体格はいい。
エレベーターの扉が閉まり、箱が上昇する。
マルコに促されるまま部屋に入ると、まず、甘いような、酸っぱいような匂いに鼻をくすぐられた。
靴を脱ぎ、フローリング張りの床を歩く。
奥の扉を開けると、とりどりの花に彩られたリビングルームが姿を現した。壁に沿って配置されているソファ全体が花束の山に埋もれている。ローテーブルの上には、大小のプレゼントボックスが、開封済みのものと未開封のものとが渾然と積み上がっていた。
「誕生日か?」
それがこの突然の誘いの理由くらいなら知っておいても良いと思い、ソファの上の花をかき分けるマルコの後ろ頭に問いを投げかける。
しかしマルコは峨王を振り返らず、その小さな頭蓋を左右に振るう。
「俺の誕生日は5月だよ」
取り上げられた花束は無頓着に放り投げられ、別の山の一角になる。
「これはまあ…なんてーの?お詫びってやつ…かな?」
濃い色のベロアが張られた座面に大きく一箇所スペースを作り、座りなよ、とマルコはようやく振り向いた。いつも通りのどこか困ったような面差しだが、目の青色に少しの陰りがうかがえる。その正体が見えそうな気がして、峨王が目線を下ろして覗き込もうとすると、マルコはさっと瞼を伏せて、ソファの方へ峨王の腕を引っ張った。
「コーラでいい?コーヒー淹れてもいいけど」
峨王がおとなしくソファに腰を落としたのを見届けると、マルコはテーブルの上のものを床に押し出しながらそう尋ねる。
「どっちも好かん」
「あー、そう…」
周囲を見回して、床に落ちた箱の一つを取り上げる。上面の文字をさっと読むと、峨王に向かって見せつけるように広げる。
「チョコレート。……食べないか」
「食わん」
峨王がマルコを振り回している、と端から見ている者は言う。実際、峨王のしたいことを、マルコが止めることはない。しかし側で見ながら、峨王が全くの好き勝手をしているように強調するような言動をしているのがマルコという男だ。止める気がないくせに、止められないとのそぶりを見せる。峨王が何をしようとも困らないはずなのに、困りきった顔を作って見せる。
今だってそうだ。途方にくれたような顔。峨王の送る肉だけの食生活は、マルコのみならず、峨王に関わる全ての者の知るところである。他の何も、峨王は求めはしない。わかっていて、誘いをかけて、断られて、傷ついた顔をするのは、なぜだ。
マルコは手元を見つめて、ブランド名に沿って凹んでいる箱の表面を指でなぞっている。
すっきりとしたロゴマークの下、アルファベットがごちゃごちゃ並んでいる中にMIRANO-ITALIAの文字が見えて、峨王はふと、正解にたどり着いてしまった気分になった。
イタリア。お詫び。贈り物。
唐突にも思われた、このマンションを選んだ人物の話。
「父親からか」
「…………うん」
幾許かの間回答をためらった後、マルコは結局頷いた。
「マルコ」
呼びかけると、マルコは素直に顔を上げて峨王を見遣る。手招きすると、驚いたように一瞬目を丸めたものの、すぐに箱をそばに置いて、峨王の方に近寄った。
すぐ前に立って、見下ろす角度で首をかしげるマルコの腰を、自分の腿に乗り上げさせるように抱き寄せる。
「が、…峨王?」
意図をもって後ろへと撫でつけれらた前髪を、崩しながら搔き回す。抗議の声を上げようとするマルコを遮って、峨王は弟妹を思い出しながら声をかける。
「寂しいならそうと振る舞え」
「さ…?」
「父親が帰国の約束を反故にしたんだろう」
言い切ってやると、マルコからの返答はない。代わりに、黒いシャツに覆われた両腕が、峨王の肩に抱きつくように動く。
「お…おまえがもっとバカだったらよかったのに…」
肉厚の肩に、形の良い鼻が押し付けられる。
「……ノンナを連れて帰ってくることになってたんだけど、ノンナの具合が悪くなったから、飛行機は無理だっちゅー話になって」
甘えたような言葉選びが、吐息に乗って、少しずつこぼれていく。
「ノンナ?」
「あーええと、おばあちゃん…?お父さんの、お母さん…?」
「ああ」
イタリア語か、と得心する。無意識に放たれた呼称は、常にそう呼ばわってるからだろう。
「まあ、だからあの中には、ノンナからのプレゼントとか、ノンノからのとかも混じってんだけどさぁ」
マルコは額を峨王の首筋にこすりつけた。柔らかく甘い声音が峨王の鼓膜をくすぐる。これが無自覚なのだから恐ろしい。行動全てが寂しさを訴える。全身でこちらの意識を奪い去ろうとする。マルコの唇から漏れ出す一言一句、肩の後ろに回された指のうごめきの一つ一つ、呼吸に沿って動く背中、すり寄せられる頭部。
「マルコ」
「何?」
さっきよりもゆっくり頭を撫でてやると、マルコはその手を掴んで側頭部に固定させる。
「……もっと」
秘密主義を謳う男が、今日はどうして随分と明け透けだ。それともこの奥に、もっと不可解な秘密が隠れているのかもしれない。
訝しがりながらも誘われるように色の抜けた髪の中に指先を入れようとすると、整髪料を使っているのだろう、パリパリと束ごとに固まっている。しかし固められているのは表面だけで、内側の髪は柔らかく峨王の無遠慮な指を受け入れる。
おとなしく撫で回されているマルコの姿はしかし、飄々と他人の視線を受け止め受け流す普段の姿となんら変わりはないようにも思われた。
目と意識を逸らした瞬間に、殺されてしまうだろう。
散々峨王を隠れ蓑にし、困った恐竜だなんだと吹聴しながら、自身がとんだ捕食動物だ。
峨王はため息を飲み込みながら、マルコの気がすむまで、普段は触れることのないその頭を触り倒した。